ショーレム『ベルリンからエルサレムへ』

20. 5月, 2007 • 0 Comments

読書ノート:『ベルリンからエルサレムへ~青春の思い出』(1977, ゲルショム・ショーレム , 岡部仁訳, 法政大学出版局)

ゲルショム・ショーレム(1897年12月5日-1982年2月21日)は、ヴァルター・ベンヤミンの親友であったことから関心を持った。ベンヤミンとの関係については別に『ベンヤミン-ショレム往復書簡』が出ている。『ベルリンからエルサレムへ~青春の思い出』は、ショーレムがドイツで同化ユダヤ人の家族で生まれ育つところからパレスチナに渡航してエルサレムでの生活が始まるまで(1925年)を自伝的につづり、1982年に亡くなる5年前の80歳の時に出版した本である。


● 抜き書き

○「オルガンの伴奏で礼拝を行ういわゆるリベラルなシナゴーグでも、当時はまだほとんどヘブライ語だけでやっていた。リベラルな儀式が保守的なそれと違うところは、非本質的な簡略化とオルガン音楽の他に、とりわけイスラエルの聖地復帰に言及されている件りを全て削除して、その代わりに“普遍人間的”な誓約を行う点にあった。」(1911-14 ベルリン) p.41

○「わたしがシオニズムに向かったのは、なにもわたしにとってユダヤ人国家の建設が(議論では擁護してきた事ながら)運動の主要目的として火急の問題で、すべて納得できたからなのではない。この側面は、わたしにしろほかの多くの人にしろ、ヒトラーによるユダヤ人殲滅にいたるまではごく副次的なことに過ぎないばかりか、何の役割すら演じていなかった。運動の純粋に政治的、国際法的側面は、この運動に参加したあれほど多くの人々にとって決定的なものではなかった。これに対し、きわめて影響力の強かったのは、ユダヤ人が自分自身に、つまり自分の歴史に、そして精神的、文化的な、とりわけ社会的な本質の実現可能な再生に目を向ける諸潮流だった。ただ、ユダヤ文化が、みずからの内に孕む潜在的なものを十全に実現できるような、そういった本質的更新の展望があったとするなら、それが可能なのはただ、ユダヤ人が自分自身と出会うところ、つまり自分の民族と根に出合うあのかなたの地しかない、とわれわれは考えていたのである。」p.58

○「ユダヤ教の伝統的形態の継承蘇生の努力と、ほかならぬその伝統に抗う意識的な反逆との、この両者の間の抗争は、シオニズムにとって核心をなす免れ難い弁証法を生みだした。“ユダヤ文化の更新”とか“こころの再生”といったスローガンは、この弁証法をただ言葉で覆い隠していたにすぎず、新しいユダヤ人共同体の建設を具体的に実施するにあたってそのようなスローガンをどんな内容で充たそうと試みても、この弁証法が突如出現するしかなかったのであって、事実、それが私の若い頃から最近に至るまでシオニズム運動の内部の歴史を広範囲に規定していたのだった。文化に重点を置き、政治を前面に押し出さずに社会的に規定されたようなシオニズムを唱える最も重要な当時の代弁者といえば、アハド・ハウムという偽名で名をとどろかせたロシアのエッセイスト、アシェル・ギンツベルクであった。『岐路に立ちて』という彼のエッセイは、その題からして今述べた弁証法を的にしたものだった。連続性、あるいは急進的な再出発、いずれどのような調停の試みも、胡散臭さを免れることはできなかった。ドイツ語を用いるシオニストの中で、急進的な出発を唱える最も影響力の強い主張者は、まぎれもなくマルティン・・ブーバーだった。彼は『ユダヤ教についての話』の中で、アハド・ハウム主義に新しくきわめて宗教的でロマン主義的色彩の強い方向を与えた。それは、公式に凝り固まった“宗教”を、創造的な、真に中核をなす“敬虔さ”と対決させるような方向だった。ブーバーは、ドイツで当時一般にかなり好まれたこのアンチテーゼを後に撤回し、あらたな道を歩み始めた。」p.58

○「…彼らの家族の人間的な境遇も身にしみて感じさせられた。というのも、両親たちは、子どもたちがドイツ人として同化していくかシオニズムに入るか、そのいずれかを見守る二者択一に迫られていたからである。」(1917-1918 イェーナ) p.107

○「ユダヤ教の正統派のなかでもきわめて戦闘的な性格をおびる比較的若い世代は、当時、2,3年間タルムードの研究をするために激しい反シオニズム的なハンガリーとリトアニアのタルムード学校へ出かけ始めており、すっかり変貌して帰ってくることが多かった。」(1919-22 ミュンヘン) p.133

○「当時、ドイツのシオニストたちは、少ないながらもきわめて意味深長な少数派を形成していた。ともかく1920年には、約60万人のユダヤ人の内、それでもすでに2万人がドイツのシオニスト連盟の派遣代表者会議の選挙に参加しており、このことは選挙年齢を考慮に入れると、戦前の時代からこの運動の影響が急速に増大したことを示している。彼らは、その圧倒的大多数がブルジョワ的な考えの持ち主だった。私が共感を覚えていたのは、形成されつつあるキブツ運動の社会的理想を唱える急進的なサークルだった。」(1922-23) p.167

○「わたしがイスラエルにやってきた時期の1920年代初期は、シオニズム運動の頂点であった。どういったらよいだろうか、向こうに、つまりパレスチナの労働に最高のものを期待しようという燃えんばかりの一つの青春が、この地に訪れてきていたのであり、自分たち自身の生産的生活を営もうというユダヤ人社会建設のための努力は、きわめて熱気を孕んだものだった。影が立ち現れ、はっきりみとめられるようになったにも関わらず、かげがえのないすばらしい歳月だった。(中略)わたしが来たころ、この地にいるユダヤ人は10万に満たなかったが、それでも自分のこととしてシオニズムの問題に一身を捧げたあの青春から発する大きな推進力のようなものがあった。シオニズムは、決定的な局面では青春の運動であったことを決して忘れてはなるまい。その青春が自明の所有物としてもっていたものが、50年後に、あれほどおびただしかった青年運動から壊滅的に消え去ってしまった。いや、それどころかののしりの言葉と化してしまった。すなわち、この青春には歴史意識があったのだ。わたしがこころと魂のすべてを分かちあったシオニストたちのこの歴史意識に、いかなる弁証法が隠れひそんでいたか、このことについてはすでに本書で触れておいた。連続と変革の弁証法である。しかし、わたしたちが自分の民族を民族として認識し再発見していたころ、その民族の歴史を否定しようなどと思いついた者は、われわれの中にだれ一人いなかっただろう。その歴史は、たとえわたしたちがそのときここでなにを得ようと努めていたにしても、私たちの骨髄にしみこんでいた。わたしたちが自分自身の歴史に帰郷することによって、わたしたちは、ともかくわたしたちの大部分は、その歴史を変えようとしこそすれ、否定しようとは思わなかった。この聖約(レリギオ~宗教心)、この“遡る約びつき”がないので、この企ては見込みがなかったし、いまもないのであって、最初から挫折する定めにあったのである。ここではこれ以上述べるわけには行かないが、このすぐあとにつづく時期に露呈していった諸問題は、この時点には潜伏していなかった。つまり、われわれは党派だったのか前衛部隊だったのか?ユダヤ人は自分の歴史を受け入れ展開しようと思ったのか、思わなかったのか?ユダヤ人の存在は、自分たちが入ってきた歴史的な周囲の世界の中でどう見えたか、ユダヤ人の生活はアラブ人を除いて、あるいはアラブ人と共に、あるいはアラブ人と対抗して、どうやったら堅固な基礎の上に築けたのか?こういった問題にぶつかって、わたしがこの地にやってきたころ、人々は分かれだしたのだった。」(1923-25 エルサレム) p.184


●コメント

この本が出版されたのは1977年、すなわち「旧約聖書の教えに基づいて」領土拡大をめざす大イスラエル主義を掲げてメナヘム・ベギンが率いるリクード党がイスラエルの政権を獲った年のこと。

訳者は、「ショーレムはその後のイスラエルの混乱を“聖約(宗教心)”のなさに結びつけているところがある。はたして今日のイスラエルとアラブの問題をこの宗教心で解決できるかどうかは大いに疑問ながら…」とあとがきで述べている。

しかし、ショーレムのこの言葉は、シオニズムの諸潮流が圧倒的に世俗主義的だった時代を「シオニズム運動の頂点」と振り返る一方で、シオニズムが宗教化し、原理主義政党が政権をとった年にあって「聖約のなさ」を批判しているという歴史的文脈を踏まえて理解すべきであろう。単純に「宗教心」が紛争を解決するとショーレムが考えていたなどと思うのは間違っている。

※ 「シオニズムに反対する者で、この運動について語ったもっとも深遠な言葉を発したのが、このヘルマン・コーヘン(新カント学派のマールブルク学派の頭目)である。」(p.74)と書かれているのを見てウェブで検索をかけていて、シオニズムに関する素晴らしい論文を見つけた:

中澤英雄「ユダヤの非合理的な伝承―カフカの『万里の長城』における「指導部」の問題」(1992)

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