「日本宣教百周年」に語られていたこと

18. 3月, 2009 • 0 Comments

「日本宣教百周年」の時にどんな問題意識が持たれていたのかを観察してみました。

100周年を記念して出版された『アジアにおけるキリスト教』(山本和 編、創文舎)がたまたま手元にあったので、山本和の議論のポイントの幾つかを抜粋で紹介します。山本和は、バルト主義者として知られていた人で、このわずか10年程前に『日本基督教団より大東亜共栄圏にある基督教徒に送る書翰』の原案を作成したとされる人です。(※この書簡の執筆者は京大教授だった松村克己だと書かれているのも見ますが、どちらが本当なのでしょう?)

(1) 宣教の不振が嘆かれていたこと

「せっかく迎えた宣教の好機がむざむざ喪われていく徴候さえ見え始めている。戦後伝道の新しい開始を迎えて大いに動いた教団が、日本は数年ならずしてキリスト教国になるであろうとまで占領軍総督に予言せしめた教団が、十年後の今日、伝道と教会の頽勢に当面しようとは!」

「宣教が行き詰まり、低下し、沈滞しているというこの事態について、日本の神学は弁明の責務を負うている。人はこの事態と事由を説明するために、統計学的数字のグラフを片手に社会学的観察や測定や判断を下しうるであろう。あるいはまた原始キリスト教の環境であったローマ文化やローマ国家官憲の宗教政策<寛容>と、徳川幕府および明治政権の宗教政策<非寛容>を比較考量して、日本宣教の困難さと遅滞の歴史学的考証や理由付けを見いだしうるであろう。更にまた外国ミッショナリーの功罪を論じたり、都市伝道に比較して農村伝道の困難さを日本の社会構造の特異性から解明しようと試みたり、合同教団の人物払底を人物評論的に描いたりすることもできるし、場合によってはしなければならぬかもしれない。」

「教会の死滅の危機は、教会分裂への傾向として最も端的に現れている。…統一教団から飛び出すバッタの情熱の再燃、それを抑える止め役の骨折れる説得役!こんなことを繰り返していると<日本教会>自身が虚無に脅かされ、死に瀕する。こういう弱体を内に蔵していて、何の宣教百年記念祭であろうか!?宣教は阻まれ、教団は無に脅かされている。…この体たらくが、世界教会にとって予言者的役割を演ずると期待された合同教団、アジアの若年教会の現状である!何を以て世界教会に貢献し、欧米教会の霊的・物的援助に応えようというのか。」

(2) アジアの教会の盟主が自認されていたこと

「アジアの教会は世界教会に、アジア神学は大陸および英米神学に何を貢献するか。教会の米国植民地化によってではまさかあるまい。アジアの教会の独立と自発行動によって神の自由な召しに自由に応える<自由な教会>をここに建て続けることによってである。大陸教会の旧い職制の旧弊をここに移植して、敬虔な伝統として有り難そうにこれにしがみつくことによってではない。」

「さてわれわれアジアの神学からは、この大陸神学とアングロサクソン神学との論争、<宣教か護教か?>はどう受け取ればいいのか。我々自身はどこに立つのか。またどこに立てば非キリスト教地域であるアジアの教化が最も有効になされうるのか?こうした問題提起がアジア神学の本場の日本で、まだ一度もなされたことがないのは不思議なくらいである。大半は異教地帯と異教文化、異教的慣習と異教的伝統に取り囲まれているアジアの教会にとって、キリスト教は善いものだということが先ずアジア民衆によって承認されねばならぬ。それは護教神学の課題ではないのか?しかしこの課題はいかにして有効に果たされうるのか。ニーバーやティリッヒがもっと研究されねばならぬ必要がここにある。ニーバーは済んでいない。なぜならアジアにおける宣教は、<アジア的貧困>に悩む民衆への愛から、彼らの終末論的状況への参与からなされねばならないからであり、バルトの神学がその真意を体得されないと、形式化・固定化・独善と排他の自己義認に誘われる危険が大いにありうるからである。」

「アジア・ナショナリズムはそれのきっかけになるであろうが、私には未だ未だその時期は遠いと思われる。人はそれをアジア神学の植民地状況からの脱却、その神学的思惟の独立と独創性の問題だと規定しうるでもあろう。しかし慌てすぎてはならない。」

※「アジアにおけるキリスト教」と題されている本だが、(日本以外の)アジアの教会や神学には一切言及がない。

(3) アジア民族主義が称揚されていること

「都市と農村とを問わず国民の大半をなす民衆にいかにして福音の光が届くのか?その方法と戦術こそ、非キリスト教地帯アジアの最大の課題である。…アジアの教会は、次の三つのものに宣教せんがために、有効な護教の課題を負わされている。(コミュニズム、無の哲学(東洋的ニヒリズム)、アジア民族主義)」

「キリスト教はアジア民族主義の味方であり、その出世地ではあるが西欧資本主義の弱小民族に対する支配や征服欲の味方をしたり、そのお先棒を担ぐことはできない。予言者宗教もイエスの宗教も、宗教改革者も現代の宗教改革者も、貧者・虐げられた者たちの側に立っている。アジア民族の解放の要求は、神の正義なのである。」

(4) 日本がアジアを侵略し、植民地支配したこと、教会がそれに加担したことについては、一言もないこと。

「わが民族の明治開国以後の文明開化と国家隆盛、そして満州事変以後の国家衰退と敗戦による民族の悲劇と試練の道、この国家興亡の運命や世界史的事件への(受動的・能動的)参与と絡み合って演ぜられてきた宣教百年史は、日本民族のために何を貢献したであろうか。また今日、何が日本のキリスト教から期待されているのであろうか。…しかしそれまでに擡頭してきていた軍国主義的国家主義がついに国家と民族の運命を誤る結果を招いた。」

(5) 「ドイツ的キリスト者」との闘争の中で神学を論じたバルトの追随者であり、かつ、「日本的キリスト者」の代表的イデオローグであるという矛盾の自覚がないこと。

「ここ四百年間、歴史の進歩を確信し、人間の性善と改良の可能性を夢み、ブルジョワ近代社会の前進と発展の無限性を信憑してきた世俗的諸学や諸思想と、キリスト教とはあまりにも似通ってきていた。…そこへやってきたのが第一次世界大戦の異常な前代未聞の破局と大震蕩である。それにつづく第二次大戦にいたる三十年間のヨーロッパ諸民族および諸教会の試練は、ヨーロッパ精神をいわば終末論的状況に投げ込んだ。この状況下で呻吟嘆息し、苦しんで苦しんで苦しみ抜いたあげくの果てに、思いも受けぬことが起った。それは、ヨーロッパ神学の最深部で、新約聖書のメッセージが圧倒的重量と生々しさで、始めて聞くときのような新鮮さをもって聞こえてきたことである。」

「彼ら、若い神学者たち(バルト、トゥルナイゼン等)は聖書に固執し、その喜ばしい使信の内容をヨーロッパ戦後状況で悪戦苦闘している個々人と全人類のいわば宇宙的な苦しみ(ロマ8:23)の中に語り込もうとし、人間としてはそれを語り得ないで嘆息し、しかしその説教者の人間的弱さと破れにも拘わらず、その中で凱旋する神の恩寵、<弱きにおいて力強い恩寵>にのみ満足することを学んだ。だから<今日の>ヨーロッパ神学は、その強烈な主線、最深の方向において、<宣教神学>だったし、そうならざるをえなかった。」

※『日本基督教団より大東亜共栄圏にある基督教徒に送る書翰』より

「兄弟たちよ。諸君は使徒が『おおよそ真なること、おおよそ尊ぶべきこと』と語っているところのものは、単に教会の中なる諸徳について言っているのではなく、教会の外の一般社会の中にあるかのごときものを、思念せよ、尊敬せよ、と言っているのであることを十分御承知と思う。この美徳を慕う感情においても諸君はわれらと一つであられるであろう。分裂崩壊の前夜にある個人主義西欧文明が未だ一度も識らなかった「おおよそ尊ぶべきもの」が、東洋には残っている。われらはこの東洋的なものが、今後の全世界を導き救うであろうという希望と信念において諸君と一致している。全世界をまことに指導し救済しうるものは、世界に冠絶せる万邦無比なるわが日本の国体であるという事実を、信仰によって判断しつつわれらに信頼せられんことを。」

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