「しょうがい」者への宣教の聖書的、神学的根拠

18. 7月, 2006 • 0 Comments

ジョージ・マシュウ・ナルンナカル(George Mathew Nalunnakkal)
(翻訳:田中牧子、翻訳校正:くまのみ)

● 序論

 宣教は第一義的に神中心である。私たちが呼びかけられて為すのは、神の宣教(ミシオ・デイ)だからである。宣教が神の宣教(ミシオ・ディ)であるならば、神をどう理解するかは宣教とその方法に関わることになる。

● 三位一体: 共同体的な神

 キリスト教で神について語る時、三位一体の概念が基軸となる。伝統的な神の理解では、神は、単独で、自己充足していて、それ以上は分かたれないような存在である。この理解は、とりわけ西欧では、個人主義の出現と発展に繋がった。他方、三位一体の神は、「存在の共同体」のモデルを提供する。神、永遠の存在は、三つの異なる性質の存在からなる。新しい社会を求める私たちの探求は、三位一体の神のヴィジョンを基礎にすれば、堅固な土台をもつであろう。それは個人主義に異議を申し立て、神についての共同体的な理解を与える。ラテン・アメリカの解放の神学者スグンドが述べているように、

神は、互いを結ぶ強い絆を創造し、維持する、三つの異なる性質の個の共同体であり、平等な社会をつくろうとする人間の努力をよく感知する 。

 三位一体の神は、相互依存と相互的関係を肯定する。言い換えれば、三位一体の神の特徴は、何よりもまず、この相互関係性(sense of inter-relatedness)である。父、子、聖霊は、互いを必要とする。どの一つだけであっても、神性は完全でない。事実、互いを関わらせないで論じられた神学、キリスト論、救済論は、すべて問題を孕み、還元主義を生み出すか、排他的な原理主義的な主張となってきた。

 三位一体の神理解は、相互依存性に関わって、「しょうがい」と宣教についての我々の見方と密接な関わりを持つ。「できること(ability)」と「しょうがいを持つこと(disability)」はしばしば二元的な極のように思われている。実際には両者はむしろ相関関係にある。依存と脆さは全ての人にとって共通の人間的経験であり、「しょうがい」者のみの経験ではない。アラスデール・マッキタンイアが論じるように、依存と脆さは、多くの「しょうがい」者にとって特徴的な経験、突出した経験であるにしても、普遍的に、人間性の一部をなすものなのである。

自立状態から依存状態へ、あるいは依存状態から自立状態へ変わるには、変わった後の自分と、変わる前の自分が、同じ人間であると認める他者が必要である 。(アラスデール・マッキタンイア)

 「できる」ということを純粋に個人主義的な意味で理解しようとすると、とても難しいことになるだろう。共同体がある行動に参与する時のみ、私たちは人々がある行動が「できる」と言えるのだ。「ウブンツ」というアフリカの概念は、人間のこの相互関係性を主張する:「私が存在するのは、私たちが存在するからである (I am because we are)」

 マルコ6章5節には、ナザレで、民の不信仰のゆえに、イエスが何の力あるわざもおできにならなかったと書かれている。言葉を換えると、人々からの応答や協力がなかったので、イエスは多くのことができなかった、と言えるだろう。不信仰と応答のなさが、イエスに「しょうがい」をもたらしたのである。相互的な関係にあって、建設的に協力しあうときのみ、私たちは「できる」のである。

 出エジプトの物語では、ファラオのくびきから抑圧された人々を解放するという神の宣教のために、モーセという名の一人の「しょうがい」を持つ者が選ばれていることに気づかされる。これは、抑圧されている者を解き放つ神の宣教において、「しょうがい」を持つことは妨げとはならないというヤーウェからの明確なメッセージである。モーセは、「しょうがい」があるにもかかわらず選ばれたのではなく、「しょうがい」を持つ者として選ばれたのである。

 モーセさえ「できること」を(従って「しょうがい」についても)個人主義的に考えていたと信じるに足る理由がある。モーセは、そのために、ヤーウェに代わって解放の闘いを率いよという神の命令から逃れようとしたのかもしれない。

「モーセは主に言った。“ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。”」 (出エジプト4:10)

 すると、ヤーウェはモーセにはっきりと、彼は一人で存在するのではなく、彼の創造主である神との関係において存在するのであると言われた。

「さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」(出エジプト4:12)

 その後、モーセは、義父によっても、「できること」についてのその純粋に個人主義的な理解を問われている 。モーセが仕事の多いことについてこぼすと、エトロは何故一人きりで民の問題を解決しようとしているのかと尋ね、民から助けを得よと助言する。そして、モーセは、エトロの助言を聞いて民と共に働き始めて、仕事をこなすことが「できる」ことに気がつくのである。エトロがモーセに「できる(有能な)」人と共に働くように求めたことは興味深い。とりわけ有能さが倫理的な価値や徳への忠実さによって質的に定義されていることは印象深い。

あなたは、すべての民の中から、有能な人、すなわち、神を畏れる人、真実の人、貪欲をにくむ人を選び、千人の指導者、百人の指導者として民の上に立てなさい(出エジプト18:21)

 WCC-EDANのサミュエル・コビア幹事は、コリントの信徒への第一の手紙12:21-27を引用して、人間性の相互依存的な性質について注意を喚起された。パウロはここで、からだの独立性でなく相互依存性について論じている。人間は、諸目的を達成しようと励む中で、常に互いに依存しつづけるものである。私たちは、個人として社会で生を全うすることはできないのである。

 三位一体の神の共同体にあっては上位性や優位性といった関係性はない。平等であること、協力し合う同労者の関係であることが基本である。そうした価値や理想に欠ける社会、カースト、階級、ジェンダー、「できること」/「しょうがいを持つこと」、性的指向、その他の要因に基づく差別がはびこる社会にあっては、三位一体論的な平等主義的ビジョンが、私たちの宣教を立て直し、私たちの共同体を再構築する助けとなる。

● 苦しむ神

 聖書の神はまた、苦しむ神である。人間の苦悩を共にする神である(イザヤ53章)。だが、通常、私たちが抱いている神のイメージは、絶大な力、あらゆる権能を持ち、全能で、超越的な王といったイメージである。苦しみを感じることがない神、自らが苦難に遭うことなどありえず、人間が受けている苦難によって影響を受けたり、動かされたりすることのない神といったイメージである。

 台湾の神学者C.S.ソンは神を「高電圧の神」と考える。シナイ山で、民は、「高電圧」の神に近づかないように警告される(出エジプト19:21)。神の箱は、神の「高電圧」のもうひとつの表現である。ウザは、神の箱に触れて、死んだ。これは聖書の神は情熱の神であることを示している。

 神学者 小山晃佑は、この神を「熱い神」と呼んだ。創世記8:21(「主は宥めの香りをかいで」)を引用して、小山は、神は本来情熱的であるとする。神はまた、民と自らの関係が壊れると激怒する「熱情の神」 (出エジプト20:4-6)である。正義が脅かされ、不正がはびこると、神はすぐに怒る。神は、私たちにも、自分たちの状況における正義の問題に注意を払うよう求めている。「神の熱さは、契約の中に置かれることで、冷ややかな見かけを熱している」のだから、不正や抑圧に対して、私たちは無気力であったり鈍感であったりしてはいられない(『水牛神学』p.153)。

 このように、静穏な神という伝統的な概念には異議が立てられている。神は、抑圧者と不正に対して、怒りによって立ち向かわれ、正義を打ち立てられる。これは神の愛と正義の一部なのである。

 神学者 北森嘉蔵は、もう一つの神のイメージをあきらかにしている。人間の苦しみを自ら苦しむほどに人間を愛していてくださるという神のイメージである。これはアジアにおいて聖書を読む私たちにとって、とても適切なものである。ここには人間のために痛みを経験する神がある。エレミヤは神の傷みについて語った。「わが心は痛む」(エレミヤ31:20)。「神は、人間の痛みを、自ら経験する中で解決する」(『神の痛みの神学』)。

 伝統的な西洋の神学では「痛み」という要素、その本質が失われたが、アジアの神学は、「しょうがい者」差別を含む様々な構造的不正義の中で無数の民が苦悩しているという状況にあって、それを欠いてはいられない。私たちに必要なのは「アジアの胎からの」神学、痛みが経験される場であり、いのちが生まれる場である「胎」からの神学である。

● 十字架につけられた神

 聖書の神、苦しむ僕、痛みの神は十字架につけられた神である。

 私たちがイエス・キリストにおいて出会う神は「無力」で脆い神である。イエスを支えるものはただ2本の木の梁しかなかった。そこには恥辱、無力、屈辱、痛み、苦しみが表されている。しかし、ディートリッヒ・ボンヘッファーが言ったように、「苦しむ神だけが救うことができる」のだ。十字架につけられた神は、私たちの「ために」苦しむだけでなく、私たちと「共に」苦しまれる。これが、「しょうがい」者や他の苦しんでいる人々の希望の土台である。

 小山が言ったように、イエス・キリストの十字架は、欠けたところのある十字架、「ハンドルのない十字架」であった。ハンドルは力と支配の象徴である。神は十字架につけられることで、ご自身を、力のないもの、自らを守ることが出来ないものと重ね合わされたのである。イエスの十字架は、それゆえ、「しょうがいをもつ」十字架であった。

 この神は、街の壁の外で十字架につけられたことで(ヘブル13:29)、イエスが周縁の神であることを明らかにされた。イエスは、このように、周縁にあること、周縁に押しやられた人々と共にあることによって、彼の中心性を明らかにされた。イエスは、抑圧された人々と周縁で出会った後、その人々を中心に連れ出された。マルコ福音書3章1~5節で、イエスは、手の萎えた人を、彼が排除されていた会堂の真ん中に立たせてから、手を治されている。イエスにとって、癒しは、治療以上のことであった。

 十字架につけられた神は、神的な破れと脆さを現されたのである。

 このように、アジアの諸神学における神は、ダリット(カーストの外に置かれた被差別民)、先住民、民衆(韓国のミンジュン)、「しょうがい」者、HIV/AIDS感染者、女性、漁民の共同体などの苦しむ人々にご自身を重ね合わされる神である。ユダヤ人にとって、メシアが苦しむ姿は思い描くことが出来ないものであり、侮辱とさえ思われるものであった。ユダヤ人がメシアに期待していた姿は、ダビデのような、栄光と力に溢れた王の姿だったからである。そんな期待に反して、メシアは貧しく、苦しむ僕としてご自身の姿を現されたのであった。世界教会協議会(WCC)の文書「“しょうがい”を解釈する~すべての人の、すべての人のための教会」に次のように書かれているように:

キリスト者として、私たちは、肉体となり、十字架につけられて、動かず、全く何もできない神を礼拝している。私たちの神は、脆く、傷ついた神である。

 私たちはそれゆえ、さまざまな制度的な不正義で苦しんでいる人々において、神に出会わなければならないのである。

● ゆっくりした神

 グローバリゼーションの時代にあって、全てが、速度によって決定されているようだ。人々、とりわけ若い世代は、速度を追い求めている。科学技術とコンピュータの速度が、今日の生活を形作っている。コンピュータ世界の狂気のような速度についていけない者は置き去りにされ、「地球村」でさらに周縁化されるのである。

 小山は、「3マイル、1時間の神」の概念を提起している。聖書の「荒野のイメージ」から得られたこの概念を、急速に変転するコンピュータ文化に駆り立てられている人々に向けて示しているのである。小山は、神の速度は愛の速度であって、科学技術の速度ではないと言う。神は40年間をかけて、人はパンのみで生きるのではないというメッセージを伝えた。イエスも、その生と働きにおいて、この「遅さ」の範を示された。例えば、娘が悪霊に憑かれたカナンの女の願いをかなえるのに、イエスは随分と時間をかけられた。この神のイメージは、現代の科学技術についていく財産がないばかりに脇に追いやられている多くの人々に関心を持つ助けとなるはずである。とりわけ「しょうがい者」は、今日の科学技術とコンピュータによる差別を被っている。それは競争と独占の倫理を奨励するグローバリゼーションが、今、もたらしている歪みである。

 ひとつの逸話を語りたい。インドにある私たちの知的「しょうがい」を持つ青年のためのセンターで、最近、長距離走の大会を催した。6人が参加した。途中で1人が倒れたのだが、嬉しくも驚いたことに、倒れた少年の先を走っていた5人すべてが走るのを止めて、その少年の安否を確認するために引き返してきた。この少年たちは競い合って他人を負かして勝とうとする衝動に駆られていなかった。彼らの「有能さ」は倒れた仲間への気遣いに表されたのである。それ以来、私たちは子どもたちが競走するプログラムを企画しなくなった。私たちは新しい気づきを与えられた。少年たちは、機械や科学技術の速度でなく、愛の速度で動くことを教えてくれたのである。(パラオリンピックについても再考すべきなのかもしれない。)

 宣教が、経済的グローバリゼーションの論理にならって、救われる魂の数といった量的な尺度によってなされていないだろうか。私たちは、愛、正義、創造物の保全といった倫理的な価値によって導かれるような、質的な尺度をもって進める宣教を育てるべきであろう。

● すべての人の、すべての人のための社会と教会

 神の宣教が包含的である故に、神の宣教への私たちの応答も包含的である以外にありえない。しかし、教会でも、社会でも、私たちが経験するのは多くの場合、カースト、階級、ジェンダー、性的指向、「できること」/「しょうがいを持つこと」などに基づく、排除の精神である。

 イエス・キリストは、十字架において、排除をもたらす全ての分断の壁を取り除き、真実の和解をもたらした。真の和解のためには「分断の壁」あるいは障壁が崩されなければならないことが示されたのである。人種差別、カースト制、性差別、資本主義、環境への暴力などによる壁が崩されなければならないのだ。

 グローバリゼーションは、障壁(貿易障壁)を壊すという口実の下で、実際には、第一世界の覇権という新たな壁を打ち立てている。第三世界を排除する壁、新植民地主義の新しい壁が立てられている。国際通貨基金(IMF)、世界銀行の新しい経済政策、世界貿易機関(WTO)の機構、構造改革プログラム(SAP)、貿易と関税に関する一般合意(GATT)、そして、新しい知的所有権(IPRs)などが、貧しい人々を分断して排除する古びた砦の今日的な姿である。

 コリントの信徒への第1の手紙 12章で既に見たように、からだの全ての部分は、等しく重要で、価値がある。キリストの体である教会もそのようであるべきだ。ヨハネによる福音書21章での、弟子たちへの復活後のイエスの顕現は、私たちに教会と社会の包含的なビジョンを与えてくれる。弟子たちが湖で網を打って多くの魚が獲れたとき、網の中に153匹の大きな魚がいたと言われる。当時、海には153種の魚がいると考えられていたので、すべての種類の魚が網の中にいたということである。ジェロムは、教会をこの網にたとえ、網の中の153種の魚を全ての人にたとえる。イエスの「網」~教会の中には、階級、カースト、人種、性、その他によって排除されることなく、誰もが居場所がもてるのだ。キリストの教会は、全ての人の、全ての人のためのものである。この神の支配のビジョンは、ただ未来に実現するというものでなく、今、ここで、具体的に経験される先取りである。私たちの宣教は、このビジョンに向けて取り組まなくてはならない。

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