<シオニズム>を歴史的に理解する :: 海辺のノート

<シオニズム>を歴史的に理解する

4. August, 2005 • 0 Comments

シオニズムは旧約聖書を根拠とするユダヤ教の宗教運動であるかのようにしばしば説明される。シオンの丘(エルサレム)に国家を再建することはディアスポラ(離散)以来の苦難を嘗めてきたユダヤ教徒の悲願であり、イスラエル共和国はその成就であると。しかし、そのような見方は当のユダヤ人の歴史を無視したものである。

「シオニズムの中には奇妙な弁証法が横たわっている。シオニズムはユダヤ民族の根源力を目覚めさせようとする。この根源力は宗教的な力である。しかし、シオニズムはまさに非宗教的な、民族主義的な運動として開始されたように見え、宗教的なものからのこの離脱にその大いなる進歩を見いだした。シオニズムにおいては宗教は個人的問題なのであった。」

これはシオニズム運動に尽力したフーゴ・ベルクマン(1883-1975)の言葉である。


シオニズム運動は、19世紀ヨーロッパにおけるユダヤ人迫害を最大の要因として起こった民族主義運動である。

啓蒙主義の広まりと重商主義による資本主義経済の発展の中でユダヤ人の解放は進んでいたが、一方で国民の同質性を原理とする近代「国民国家」形成が進むと共に、1870年代後半頃から、完全に同化されえない「民族」集団として(=「ユダヤ人問題」)、さらには特異な「人種」集団として、ユダヤ人は近代化の矛盾のはけ口としてスケープゴートにされ、迫害されるようになった。そこで、アイデンティティを守るため、あるいは生き残るための方策として議論されるようになったのがシオニズムであった。

「シオニズム」という語は、1890年にナータン・ビルンバウム(1864-1937)によって、19世紀のイタリアやドイツの民族主義をモデルに観念されたユダヤ民族主義のイデオロギーを表す言葉として発案された。西欧では「ユダヤ人」は宗教的な集団として観念されていたが、ナータン・ビルバウムは東欧で民族的な集団として存在するユダヤ人の共同体を知って衝撃を受け、国家と領土をもってこそ民族は国際社会において地位を占めることができるというナショナリズムを、シオニズムの名においてユダヤ人問題への解答として提起し、それがヘルツェルに引き継がれたのである。なお、ビルンバウムは第一回シオニスト会議で事務局長を務めたが、やがてシオニズム運動から離れて、ディアスポラの地においてユダヤ人の権利を確立し、ユダヤ文化を再興すべきであると主張するようになった。(※ビルンバウムは西欧ユダヤ人を主体とする政治主義に反発し、東欧ユダヤ人の文化から学ぶべきだと主張してイディッシュ語の復権を唱えた。)

ロシアや東欧では、1881 年以降に頻発したポグロム(集団虐殺)や反ユダヤ立法の動きの中で、信仰の崩壊を防いでユダヤ教徒の一致を守ることを目的とした精神的/文化的シオニズムが生まれた。パレスチナに入植して離散ユダヤ民族のルネサンスを起こす拠点とすることを目指しながらも、国家建設は神への冒涜であるとした。反ユダヤ暴動によって発生した東欧ユダヤ人移民の多くは米国に渡ったが、一部はパレスチナに向かい、民族再生を理念とするシオニストに指導されて入植したが、フランスの大富豪エドモンド・ベンジャミン・ジェームズ・ロスチャイルド(1845-1934)からの援助に頼った結果、次第に変質して、1910年頃には挫折せずに残ったユダヤ人入植者たちは新来のユダヤ人移民よりも熟練したアラブ人労働者を好んで雇用する農園所有者へと姿を変えていた。今日、シオニストは、「パレスチナにアラブ人などいなかった。ヨーロッパからユダヤ人が入植した後、仕事を求めて周辺地域から流入してきたのだ。パレスチナ人はその末裔に過ぎない」等と主張することがあるが、それはユダヤ人入植以前から存在していたアラブ人ばかりか、この歴史的経緯を無視した見方である。むしろ逆に、少数のユダヤ人資本家と多数のアラブ人労働者によって成り立つ経済構造がユダヤ人移民によって作り出された、ということだったのである。

西欧では、フランスで起きたドレヒュス事件(1894-1906)が政治的シオニズムを生んだ。ヨーロッパで最も啓蒙と解放が進んでいたはずのフランスで反ユダヤ主義が席捲したことは、同化に希望を持っていたユダヤ人に大きな失望と衝撃を与えた。記者としてドレヒュス事件を取材したテオドール・ヘルツェルは同化主義の限界を見て、『ユダヤ人国家』(1896)を著し、ユダヤ「民族(Nation、国民)」国家の建設を外交交渉による認可獲得によって実現しようとする政治的シオニズムを起こした。ちなみにヘルツェルは、ウィーンのコスモポリタンな文化環境で育ち、ユダヤ教にもユダヤの文化的独自性にも関心も知識も持っていなかった。ヘルツェルの考えは新しいものではなかったが、国家建設に向けた提言は具体的であった。もし既に為されていた議論を知っていたなら(*)、あるいは東欧のユダヤ人の現実を知っていたなら、ヘルツェルが運動を起こすようなことはなかっただろうとも言われる。ともあれ、その並外れた熱意と切迫感のこもった取り組みによって、出版から一年半後の1897年8月、第一回シオニスト会議の開催を実現した。

(*) ヘルツェルは、モーゼス・ヘスの『ローマとエルサレム』(1860)、レオン・ピンスカーの『自力解放』(1862)、ツヴィ・ヒルシュ・カリシャーの『シオンを求めて』(1862)等を知らなかったと述べている。他に、シオニズムの先駆的な提唱者としてはイェフダー・アルカライ(Yehuda Alkalay, 1843)が知られている。

この会議でヘルツェルを議長とする「シオニスト機構」(後に“世界シオニスト機構”と改称)が設立され、以後の運動の中心となった。建国を優先して英国が提案したウガンダ案を選択する西欧の派と、パレスチナに拘る東欧の派との間で対立が続いたが、ヘルツェルの突然の死(1904)もあって運動は瓦解を免れ、東欧の派の主張が通って建国の地はパレスチナに求められることになった。

東欧では、メシア到来運動の挫折を経て、ベングリオンなどの社会主義シオニストが主導する「実践的シオニズム」が主流となっていった。移民や入植地開拓・防衛のために非合法手段も辞さず、既成事実を積むことによる国作りを進め、パレスチナを委任統治していたイギリスへの圧力をかけていった。そのための組織が、1920 年にベングリオンらによって設立されたヒスタドルート(ユダヤ労働総同盟)とハガナ(ユダヤ防衛組織)である。労働総同盟は、単なる組合ではなく、入植地建設の諸事業を行う企業体であり、建国前に政府のような役割を果たした。これに由来するシオニズムが後にイスラエルで主流の潮流となる。ハガナは後にイスラエル国軍の中核となった。一方で、ベングリオンらの社会主義的理想の建前と現実の矛盾をつき、民族主義~大イスラエル主義を強硬に主張してテロリズムを必要悪として積極的に用いる「シオニスト修正派」や、「イルグン」「シュテルン」などの組織も生まれていった。

実践的シオニズムと政治的シオニズムは1907年に統合されて「総合的シオニズム」となった。これを主導したハイム・ワイツマンは、バルフォア卿から得た理解や、第一次世界大戦でのイギリスへの協力(爆薬に使うアセトンの新製法の開発と製造)の過程で接近した有力政治家への働きかけによって、「バルフォア宣言」(1917)を引き出し、1935年にユダヤ機関の委員長を継いだベングリオンと共に、庇護者を英国から米国に移しながら、国連による分割案(1947)を引き出して、イスラエル建国(1948)を果たした。

シオニズムは帝国主義の尖兵となることを請け合うことで西欧諸国の支持を取り付けようとしながら運動を進めた。テオドール・ヘルツェルは、武力でアドリア海を制圧した植民地主義国家、7世紀末のベネチア共和国の建国史がモデルだと日記に記している(ベネチアこそはヨーロッパで最初のゲットーを作ったのだが!)。そして『ユダヤ人国家』では、「そこ(パレスチナ)において我々は、アジアに対峙するヨーロッパの壁となるのだ。野蛮に対峙する文明の前哨基地として奉仕するのだ」と書いている。第三次中東戦争における圧倒的な軍事的勝利によって、中東における覇権維持のための有用性を証明することで米国との蜜月状態を築いたシオニズム運動=イスラエル共和国の今日の路線は、ヘルツェルの抱いていた発想とどれだけ異なっているだろうか。

イスラエル共和国は、婚姻法、移民法、土地法などによって、そして職業において、非ユダヤ系イスラエル市民に対して差別を強いたり、財産を没収したりするシステムを持っている。占領を続けているパレスチナ自治区では、パレスチナ人居住地域を入植者専用道路や「壁」で囲み、ゲットー化している。軍事地帯だと宣言して住民を全て追い出し、その後安全地区を宣言して入植地を作るといったことを繰り返している。国家の制度に具現化されたシオニズムは、このように、「人種・宗教・生まれ」によって差別し、軍事的手段に訴えて強制する諸施策として立ち現れている。端的に言えば、反アラブ・領土拡張主義・強硬路線の政治的立場を意味するものとなっている。


第二次世界大戦とショアー(ホロコースト)を経るまでは、シオニズムは、ロシアや東欧の貧しいユダヤ人には支持されたものの、欧米の大多数のユダヤ人からは強く拒絶されていた。

第一回シオニスト会議の招集状に対して、ドイツのラビたちは「聖書ならびにその他のユダヤの宗教の典拠にあるメシア的約束と相容れない」と表明した。

正統派ユダヤ教では、シオンへの帰還はメシアによって成し遂げられると考えられていたし(※ 現在でも宗教法ハラカーではメシアが到来するまではユダヤ教徒は「神殿の丘」に入ってはならないとされている)、改革派ユダヤ教では、ユダヤ人とは「民族」ではなく宗教集団であるから、国家を作るというプロジェクトはナンセンスであり、またユダヤ教の普遍主義的な真理の実現に反するものであると考えられていた。

西欧の同化主義者からはフランス革命とナポレオン戦争によって進んでいた法的な解放を脅かし、同化の努力を台無しにして反ユダヤ主義を誘発する危険思想と見られていた。ロシアのボリシェヴィキのユダヤ人からは、シオニズムは最悪のブルジョワ・ナショナリズムであると批判されていた。

「シオニズムとは自分の土地に帰って住みたいというユダヤの民の夢、理想以外の何ものでもない」というキング牧師の認識は、差別と迫害を受けながらも、見も知らぬ「荒野」に移民することなど考えられず、各々のディアスポラにおいて生き抜こうとした多くのユダヤ人の信仰と政治的選択を無視したものなのだ。


シオニストにとって同化主義は運動の重大な障壁であった。そのため、しばしば反ユダヤ主義者との連携も図られた。

テオドール・ヘルツェルは、ロシアからユダヤ人問題を除くと約束し、ユダヤ排斥主義者の助けを借りようとした。

第二次世界大戦前夜、シオニストの地下組織イルグンは、ポーランドのユダヤ排斥主義者の庇護の元で軍事訓練基地を設けていた。そして世界シオニスト機構はナチス・ドイツと「ハーヴェラ協定」(1933)を結んで、世界のユダヤ人の大多数の反対にもかかわらず、第二次世界大戦末期まで公然と協力関係を持っていた。(*)

(*)「ユダヤ人を、シオニストと同化主義者の集団の2つのカテゴリーに分けるべきである。シオニストは率直に人種主義の信念を表明し、パレスチナへの移民による独自のユダヤ人国家建設計画を推進している。…われわれの正しい願望と、優れた公式命令には、彼らと共通するものがある。」(ナチス・SS保安部長ラインハルト・ハイドリヒ、1935)

今日、「ユダヤ人はキリスト教に改宗するか、ハルマゲドンで殺されるしかない」と信じるクリスチャンのシオニストが、ユダヤ人の帰還、入植のための莫大な資金提供を行い、イスラエル政府と親密な協力関係を結んでいるのは、前例のあることなのだ。

結局のところ、反ユダヤ主義とシオニズムは、分離主義において一致しているのである。


政治と不可分に結びついた原理主義的な宗教的シオニズムは、第二次世界大戦とイスラエル建国を経て初めて広まりはじめ、1967年の六日戦争を転機としてシャロンに代表されるような軍事主義的(世俗的)シオニズムと結びつくことで初めて影響力を持ち始めた潮流である(ガッシュ・エムニム(Gush Emunim)を中心とする)。

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