三浦半島の隠れキリシタン

28. August, 2004 • 2 Comments

◆ 家の近くに「キリシタン灯籠」があることを知って訪ねてきました。松輪の漁港の地蔵堂に明治6年に漁師が海から引き上げたという「キリシタン灯籠」が祀られています(写真中央)。石灯籠は十字架をかたどっていて、マリア像が刻まれています。これにまつわる記録や伝承は全く残っていないようです。

このキリシタン灯籠は神奈川新聞で紹介されたことがあるのでそれなりに知られているようですが、現地に観光客向けの案内などは出ていません。漁港の入り口にある2階建ての民家のような建物が地蔵堂です。松輪の漁師たちの(仏教の)信仰生活のにおいがしました。


関東地方に隠れキリシタンがいたという話は聞いた覚えがなかったので興味を持ち、ネットで調べてみました。

群馬の殉教者たち~隠れキリシタン遺跡探訪(古河・館林地区の隠れキリシタン、沼田地方の隠れキリシタン、邑楽地方の隠れキリシタン)

北鎌倉・光照寺の「くるす門」と燭台(5/19のところ)

さらに調べたところ、キリシタン集落は小袋谷にあったことが分かりました。
> 1603年家康が江戸幕府を開いた頃鎌倉には多くのキリシタンがいました。 幕府直轄地の小袋谷に伝道所があり教会もありました。 そして浅草・浦賀の教会と連携していました。
http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/bunjyou/rakuraku/k20041/k040122.htm

… 浦賀のフランシスコ会の教会の信徒が迫害を逃れて松輪に隠れ住み、そこでも追及を受けてキリシタン灯籠を海に沈めたのでしょうか。

> 慶長三年(1598)フランシスコ会のジェロニモ・デ・ジェスースが家康から浦川(浦賀)への貿易船の来航等を条件に一般庶民への布教を許され、翌四年京都のキリシタン八名と江戸へ下り、ロザリオの聖母聖堂を建てて布教を開始した。(「みちのくキリシタン」)
http://www.ne.jp/asahi/hayashi/love/kitakami4.htm

… 浦賀は幕末のペリー来航だけでなく、江戸幕府が始まった当初にもこんな歴史を持っていたのですね。今度ゆっくり歩き回ってみようと思います。

○ 鎌倉キリシタンについて詳しい説明を見つけました。

http://www.cityfujisawa.ne.jp/~yukicath/kirisitan.html

○ 行徳の妙覚寺

> すぐ近くに妙覚寺というお寺があります。なぜかわからないけれども、ここに人の像があります。一見すると観音さまです。行徳街回遊展のときに灯篭の下の土を掘ってもらいましたが、バテレンの足なんです。これは隠れキリシタンの灯篭で、近畿地方や九州のほうにはあるのですが、東日本ではなぜかここだけです。しかも徳川の直轄領の徳願寺の真ん前にあるという、非常に不思議なことが起きています。なぜあるのか、まったくわかっておりません。
https://www.sokugikyo.or.jp/pdf/apa_extra/apaextra02oba.pdf

> 灯籠の根本にマントを着た神父の彫刻がされていたり、傘の上部がわずかに十字架になっているのが見て取れました。キリシタン灯籠であることを隠すためか、もともとは下の方が土の中に埋まった状態だったそうです。日蓮宗のお寺にキリシタン灯籠というのも珍しいようです。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/4732/myoden2.htm
※日蓮宗正覚山妙覚寺:千葉県市川市本行徳15-20

… 文中の“東日本で”キリシタン灯籠があるのはここだけ、とあるのは“房総で“の間違いですね。

○ 武相不動尊霊場・金蔵寺のキリシタン灯籠

> 武相不動尊霊場は、神奈川県の横浜市及び川崎市の寺院を中心に、東京都内の3ヶ寺を加えて28札所からなる霊場。8番「金蔵寺」は江戸時代には武州屈指の天台宗の名刹であった。今も大梵鐘や隠れキリシタンの石灯籠などを伝え、関東三十六不動尊霊場5番札所でもある。
http://nekomo.livedoor.biz/archives/790646.html
※金蔵寺:横浜市港北区日吉本町


◆ 以前、松輪の切支丹灯籠を知ったのをきっかけにネットで調べられる範囲のことをまとめましたが、断片的な情報の寄せ集めにしかなりませんでしたが、『切支丹風土記・東日本編』(宝文館 1960/5/5)の「相模の切支丹」に情報がばっちりまとめられていましたので、抜き書きを作りました。(2008/1/21)

○ 抜き書き – 相模の切支丹(斎藤秀夫)

相模のキリシタン神奈川県へのキリシタンの布教は、慶長5年(1600)前後から始まり、迫害期の中で広がっていったが、今日では、潜伏キリシタンの事績はもとより、それと見られる何らかの伝承すらとどめていない。また県下に現存するキリシタン遺物の幾つかは、いずれ出来が明らかでなく、切支丹墓と言われる数基の墓碑も、実際には断定することの出来ないものばかりである。

秀吉の天正禁令の後、キリシタンがヴァリニアーノ師の指導によって、コンフラリア(組講)と布教書の出版という、新しい布教の方法をとったことは、迫害・潜伏の時代にも、信仰を支える大きな力となった。と同時に、イエズス会の潜行を教勢の後退と捉えたマニラのフランシスコ会やドミニコ会、アウグスチノ会などが相次いで来日、布教に従うに至って、関東・東北地方にも「生き生きとした火」がともされはじめた。

すでに後北条末期の小田原にはキリシタンの布教が行われていたとも言われるが、南関東への布教は、慶長3年(1598)、フランシスコ会のジェロニモ・デ・ゼスス師が捕らえられて家康に会い、(スペインとの通商の仲立ち、銀採掘の技術指導を求められて)、慶長4年(1599)、江戸に出て、聖霊降臨の日に最初のミサを献げたことによって始められた、と見るべきであろう。

慶長8年(1603)には、「イエズス・キリストの教は、西国に於いてそうであったばかりでなく、関東の諸州それから更に東国にも拡がり、東国の諸州では福音の生き生きした火を感じさせた」と言われるまでになった。

慶長5年(1600)、イギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針)は難船して日本に漂着、家康の外交顧問に取り立てられ、今の横須賀市逸見一帯に領地と「890人の百姓を従僕として給せられ」ていた。アダムスは元和6年(1620)、平戸で没するまで、ついに聖公会員としての生活を変えなかったが、逸見時代には宣教師がたびたび改宗のすすめに立ち寄ったようである。慶長10年(1605)、長崎の学林にいたイエズス会の一神父は、家康・秀忠父子に面会するため江戸に上り、そのさい逸見のアダムスらを訪ねた。神父は、新教がこの国に広がることを避けるためにも「もし希望するなら帰国に尽力しよう」とすすめたが断られ、さらに改宗のため百方手を尽くしたが「彼らは依然迷妄を堅く守っていた」という。

慶長16年、スペイン船5隻が、ビベロが受けた好意への謝礼と、日本人商人を送り返すために、浦賀に入港した。この船には大使(セバスチャン・ビスカイノ)と共にフランシスコ会のソテロ師も乗っていた。彼らが秀忠にオランダ人の追放を要求したことから、アダムスらは、逆に彼らの諸港測量が侵略の準備であると幕府に忠告、幕府はこれに動かされて、禁教を厳しくした。

迫害が重なると共に信仰を東北地方からエゾ地にまで広がった。それは、反権力思想と結びついて、中世的な特権を奪われた土豪や、過大な年貢の負担にあえぐ貧農、奴隷労働に苦しむ抗夫、あるいは社会の最下層に追いやられたレプラ患者・エタ・非人のなかに根をおろしはじめた。

約20年間、宗門改役であった井上筑後守は、明暦4年(1658)6月、「切支丹出で申す国所の覚」を書き残したが、神奈川県下には「武蔵国。伊奈半左衛門御代官所、神奈川より、穢多に宗門二十人余り出申し候。相模国。小田原より、宗門二三人も出で申し候。成瀬五左右衛門御代官所、鎌倉より穢多に宗門五六人も出で申し候。」という。

乞食・エタにキリシタンがあった例は同覚え書きでは、武蔵・相模に限られ、特に神奈川・鎌倉のみに記されたエタの信徒は、徳川家康により完全に滅ぼされたという後北条の軽足衆・玉縄衆の配置と関係のあるらしいことが注目される。

県下でキリシタン遺物といわれるものに、次のようなものがある。

●墓碑:箱根早雲寺に三基、三浦市三崎に一基。
●灯籠:横須賀市荒崎荒井部落の旧家、鈴木氏宅に一基。同市長井、毘沙門等に数基。
●マリア観音:小田原真楽寺蔵の懸仏、その他足柄地方に数体。
●マリア像・油絵:国府津宝金削寺蔵。
●オスチア(聖体箱):螺鈿蒔絵(重要美術品)、鎌倉東慶寺蔵。
●こんたす(ロザリオ):東慶寺領12箇所の墓地より出土。

その他、大磯の沢田美喜子氏の収集品は有名である。

2 Comments to “三浦半島の隠れキリシタン”

  1. 三明 弘 says:

    私も、隠れキリシタン遺蹟を観て歩いています。キリシタン灯篭は、館山にも一体有ります。石仏関係は仮託礼拝仏として観て歩いています。東京のキリシタン灯篭は、50体近く有ります。(新作も中には?)イエス像も見つけています。もしよろしければ連絡ください。

    私は、キリシタン灯篭は、武家信者の墓(?)では、と考えています。下屋敷などに会った物を寺院に預けて保管してます、「例えば上野の寛永寺の天海和尚は、有馬直純にキリシタン棄教を勧めた。直純はその結果、信仰を捨て所領を守った。有馬家の庭にあったというキリスト地蔵12基を移されたとなっているが現在は2基だけ現存している。」とあり大分摩滅していますが・・

    私は、房総の隠れキリシタン(仮託礼拝仏)を観るという小文の中で館山のキリシタン灯篭を次の様にまとめています。「館山市加賀谷集落の墓地の一角にある阿弥陀堂のなかにあるキリシタン灯篭は、火袋がなく竿の部分だけで、地元では中の像を安産の神様として大切にしている。このキリシタン灯篭は武家の墓であるか、墓地に置かれたものではないかと考えられる。墓だとしたら、この灯篭の形こそが正式なもので、多くは火袋を乗せて擬態したのではないか。江戸初期に波佐間に陣屋があったことから、いずれかの武家のものであろう。波佐間陣屋は後に富津市飯野に移され、飯野には小笠原家の墓地がある。」その後の調べでは、徳川家康の船奉行小笠原権之丞(切支丹である)に関係している。と考えられる。

  2. 釜井裕介 says:

    江戸時代、近所のお寺でもキリシタンの弾圧、踏み絵がありましたが、歴史としてキリスト教が根付いた経緯もございませんが、資料として興味深いものがありました。
    福岡県 豊前市教育委員会
    釜井 裕介

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