礼拝覚書(33) 懺悔(1)

8. 12月, 2019 • 0 Comments

現行祈祷書への改正によって礼拝の要素でなくなったものに「勧告」があります。礼拝は神にささげるものであるのに、勧告は会衆に礼拝の心構えや意味を教えるものだからでしょう。宗教改革後の礼拝で顕著だった要素でしたが、原始教会の礼拝の回復が進められる中で、一部がルブリックの中に移され、他は削除されました。しかし、その内容は常に心に留めるべきものであることに変わりありません。

前祈祷書では、聖餐式の冒頭に「勧告」があり、「司祭は時々(少なくとも1回は大斎節中)公祷の際、この勧告を朗読する」とルブリックで指示されていました。以下がその言葉です。

「愛する兄弟よ、主イエス=キリストは我らの救いのために、主のからだと血の聖奠を定めたまえり。これ敬虔なる人々これを受けてキリストの十字架と苦しみを記念し、主によりて強くせられんがためなり。我ら罪の赦しを得て天国の幸いにあずかるは、ただ主のいさおのみに因る。このゆえに全能の神・天の父は、その御子・救い主イエス=キリストを与えて、我らのために死なしめたまいしのみならず、この聖奠によりて霊なる糧となしたまいしことを心より感謝し奉るべし。

そもそもこの聖奠は、これを受くる人に神の力を与うるものなれども、みだりにこれを受くるは、いと危うきことなれば、その尊きことと危うきこととを考え、軽々しくせず、また神を欺く者のごとくせず、ねんごろにおのれの心をただし、聖書のうちに命じたまえる礼服をつけ、清く潔くして、この聖卓にきたり、神のふるまいにつらなるべし

まず、神の戒めをもって、おのれをしらべ、あるいは思い、あるいは言葉、あるいは行ないにて罪を犯したることを悟らば、これを嘆き、まことに改むることを決心して、全能の神にさんげすべし。もしまた隣に対して罪を犯したることあらば、直ちに和を求め、力を尽くして償いをなし、かつ、おのれの罪の赦しを神に望むごとく、他人の罪をも赦すべし。これらの事をせずして聖餐を受くれば、ただ、おのれの罪を重ぬるのみなり。されば、もし、なんじらのうちに神を罵る者・御言葉をそしる者・姦淫を行のう者・恨み憎む者・その他重き罪を犯せる者あらば必ず悔い改めよ。しからざればこの聖卓に近づくべからず

また聖餐を受くる者は、神のあわれみを堅く信じ、良心の責めなきこと肝要なり。もし前の方法に従うとも、なお心おだやかならぬ者あらば、我にきたるか、または、ほかの司祭に行きて、その憂いを述べよ。さらば赦罪の恵みと魂を健やかならしむる教えと力とを受けて疑いを去り、良心やすんずることをうべし」

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