礼拝覚書(32) 沈黙(4)

1. 12月, 2019 • 0 Comments

短い黙想の時間を実りあるものにするためには、「実りあるものにしなければ」等と思わないこと、また、朗読を耳で聞くようにすることです。わたしたちは祈る行為として聖書を読むのであって、祈る行為とは、わたしへの呼びかけに対して「主よ、お話しください。僕は聞いております」と答えて、耳を傾けることだからです。礼拝で聖書の朗読を聴くことは、知的関心で聖書を読むのとは違うのです。

人間の認知機能は、文字で記された言葉を目で追うのと、人の語る言葉を耳で聞くのとでは、異なる働き方をします。言葉を目で追う時、わたしたちは能動的姿勢をとって、個々の語そのものよりも、その語の概念的な意味や文章全体の意味を理解しようとします。人が話す言葉を聞く時、わたしたちは受動的姿勢をとり、まず個々の語の響きを聞き取ろうとします。同じ語でも、話者がどんな表情、どんな口調で発するかによって、違う意味をもちうることを知っているからです。聖書の言葉は日常会話の言葉と違って朗読者の表情や口調から意味を汲み取る必要はありませんが、個々の語の持つ響きを聞き取ることが期待されている点は同じです。聖書の言葉は朗読される前提で記されているのです。

来住英俊神父は、祈りとして聖書を読むには、言葉にさわるように読みなさい、と勧めます。言葉を手に包むように保つイメージです。個々の語には、自分の人生の歩みの中の体験、自分の属する社会や国の歴史、人類全体が生きてきた経験から来る「手触り」が結びついているものです。そうして、重要と思う語だけでなく、すべての言葉に等しく丁寧に触りながらゆっくり読むと、出来事に直に接する感じが起こる、その傍らにいて神の業にあずかるという感じを持つことができる、そうであれば、「ここはこういう意味のことを言っている箇所だ」と思い出したり、考えたりする以上のことがない読み方と違って、何度読んでも新たな充実感と喜びがもたらされる!(『聖書の読み方 レクチオ・ディビナ入門』来住英俊, 女子パウロ会)

朗読された言葉の「響き」、来住神父の言われる「手触り」が、黙想の手がかりを与えます。聖書との対話が開かれます。それに注意することで、ある言葉や句が深く自分の心に響いていることに気づかされます。それを口ずさむのです。
「知性の働きで聖書の言葉を自分の生活に“あてはめて”、あれこれ考えるのではありません。それでは、そのときは深い祈りをしたように思えても、生活を変える力にはあまりならないのです。…その場で生活とのつながりが感じられることは必ずしも必要ありません。心に深く響いてくる言葉を何度も口ずさんでいると、いつか別の場所で繋がります。」(来住英俊神父, 前掲書)

Leave a comment