礼拝覚書(31) 沈黙(3)

24. 11月, 2019 • 0 Comments

ルブリックに、「司祭は旧約聖書、使徒書、福音書の後に“いま聞いたみ言葉について黙想しましょう”と言って黙想の時をおいてもよい」とあります。「黙想しましょう」と呼びかけられて短い沈黙の時間を持つ時、皆さんはどうされますか?短い時間を与えられても何かを考えることなんてできない、と思われるかもしれません。

教会では、「黙想」は、問いを与えられて、その答えを考えるようなことを意味しません。それは、読まれた箇所について自分なりに考えてみなさい、ということではありません。

「黙想」は、散歩に似ているかもしれません。散歩は「為すべきこと」で埋められている生活の中で、何かをしなければならない、何かを考えなければならない、ということから自分を解放する活動です。哲学者のカントは規則正しく散歩する習慣を持っていて近所の人にとって時計代わりになっていたそうですが、彼が決まった道を歩いたのはそのためであろうと思います。違う道を歩けば、外界に意識を奪われてしまうからです。同じ道を歩けば、意識をより自由に遊ばせることができます。歩いていたら、ふと気がつくと何かについて思い巡らしていた、というような経験をお持ちではないでしょうか。意識を漂わせると、自然と意識は何かの周りをめぐり始めるものです。

黙想はそのように、まず意識をぼんやり漂わせることから始まります。意識を集中して理解しよう、考えようとすべきではないのです。すると、意識は自然と、いま耳から入ってきた言葉の中の、特定の言葉の周りを巡り始めます。その言葉は、例えば「見つめていた」という一つの語かもしれませんし、「小さな群れよ、恐れるな」というような、一つの文かもしれません。それを口ずさむことが、黙想の第一歩です。礼拝では、そこまででよいのです。それが他の日課、詩篇、聖歌、説教と響き合い、黙想が深められることもあるかもしれません。そういうことがないこともあるでしょう。別にそれでよいのです。

モーセが歩いていたらふと燃えているのに燃え尽きない柴の木に気がつき、不思議に思って道を外れて近づいたところ、神が語りかけた、という記事が、出エジプト記3章にあります。それが「黙想」です。

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