礼拝覚書(30) 沈黙(2)

17. 11月, 2019 • 0 Comments

○「沈黙」が礼拝を構成する大切な要素であったことは、古代教会の礼拝を下敷きにして書かれているヨハネの黙示録から分かります。

「小羊が第七の封印を開いたとき、天は半時間ほど沈黙に包まれた。…」(8:1)

礼拝における沈黙は「選択肢」ではありません。

「聖なる沈黙も、祭儀の一部として、守るべき時に守らなければならない。沈黙の性格はそれぞれの祭儀のどこで行われるかによる。回心の祈りのときと祈願への招きの後には各人は自己に心を向ける。聖書朗読または説教の後には、聞いたことを短く黙想する。拝領後には、心の中で神を賛美して祈る。」(『ミサ典礼書の総則と典礼暦年の一般原則』)

○ 神の臨在に対して人が自ずと覚える感情は、「被造物であるがゆえのへりくだりから来る静かな慄きと沈黙」をもたらします(ルドルフ・オットー)。
現在まで用いられている中で最も古い礼拝式、「聖ヤコブの典礼」では、イエス・キリストの葬列と埋葬を象る大聖入の際に、次のようにケルビムの賛歌が歌われます。

すべて死すべき者よ、沈黙せよ
恐れ、慄き、立て
われらの主キリストが
全き忠誠を求めて
祝福を手に携え、地に降られた

ドイツの讃美歌作者ゲルハルト・テルシュテーゲンも、人が聖なるものを前にする時の同じ感情を次のように歌いました(日本聖公会・聖歌集248番。ただし以下の訳は、オットーの『聖なるもの』久松英二訳から)。

神、ここにおわします
わが内なるもの、みな黙せよ
みまえにかしこみ、ひれ伏せ

○ 逆に、聖書の知恵文学は、沈黙できないことに対して多くの警告を語っています。

「言葉数が多いときには背きを避けられず、唇を制すれば悟りを得る。」(箴言10:19)

「人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。」(マタイによる福音書12:36)

「舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。」(ヤコブの手紙3:8)

 喋ることは、ある意味、その場を支配することです。逆に、沈黙は、他者が話すスペースを作ります。絶対的他者=神が話すスペースを作ります。修道院で沈黙が重視されていることを、わたしたちも省みる必要があるのではないでしょうか。

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