礼拝覚書(29) 沈黙(1)

10. 11月, 2019 • 0 Comments

礼拝を成り立たせる要素=<象徴的動作(所作)><言葉(朗読、説教)><歌うこと>について考えてきましたが、それらと並んで大切なのが<沈黙>です。
ある意味では、礼拝自体が沈黙です。礼拝は神の前に立つことなのですから。わたしたちは礼拝で意識的に日常生活の営みから離れ、人との会話を止め、神に目を注ぎ、耳を傾けるのです。それは、たまたま生じた沈黙、空いてしまった時間ではありません。目的と成果の論理で動いている世に生きている私たちにとって、それは努力しなければ作り出せない時間です。

礼拝も、それが沈黙であることを忘れれば、容易に世の一部に成り果てます。コンサートや講演会あるいは同好会のようなものと変わりないものになってしまいます。自分の益になるかどうかで、行くかどうかを決めるものになってしまいます。礼拝中の雑談がNGであるのは、単なるマナーの問題ではないのです。礼拝が礼拝でなくなってしまうからNGなのです。

聖餐式のルブリックには、旧約聖書朗読の後に「黙想の時をおいてもよい」とあります。代祷で、「感謝と代祷の題目をあげ、会衆に黙祷を求めてもよい」「各応唱の後に、しばらく黙祷してもよい」とあります。また、感謝聖別祷の後、主の祈りの前に「ここでしばらく黙祷してもよい」とあります。実際にはどこの教会でもあまり時間が取られていないのに、このようなルブリックが置かれているのは、その時に沈黙の時間を取れるようにするため、というよりも、神の前に立っていることを思い起こさせるためではないかと、個人的には思っています。

礼拝が始まる前、陪餐の間、礼拝が終わった後の沈黙の時間は、ある意味では、聖歌、祈祷文の朗唱、朗読・説教などよりも、礼拝を礼拝たらしめるものであると言えるかもしれません。なぜなら、そのような共同の沈黙の時間は日常生活には存在しないからです。

神学生の時、神学校間の交流で、ルーテル教会の礼拝を経験しましたが、最も印象的だったのは、懺悔の祈りの時の沈黙でした。その長さのゆえに、というよりも、それがルーテル教会の霊性を象徴しているように感じたからでした。沈黙の時間にこそ、わたしたちの霊性は表れるのです。

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