礼拝覚書(28) 説教(3)

3. 11月, 2019 • 0 Comments

説教は、歴史的には、古代教会で典礼が確立される中で、その方法、位置が明確になりました。

しかし、中世に移行する時期に西方教会では説教の位置が後退し、聖餐式は説教がなくても成立すると考えられるようになりました。説教の間は式が中断されると考えられて、説教者は祭服を脱ぎ、祭壇のロウソクが消されました。内容は宣言(ケリュグマ)的でなく教え(ディダケ)的で、み言葉の説き明かしでなくキリスト教的生活を教えることが中心でした。あるいは教皇の名を冠して作られた説教集が朗読されました。ただし、聖餐式とは別に説教を聞くことを中心にした礼拝も形成され、「説教者修道会(ドミニコ会)」が活躍して各地に優れた説教者を生みました。それがプロテスタント教会の説教を中心とする礼拝の母胎となったと考えられています。

20世紀の典礼改革で、説教は神の救済行為を告げる言葉として聖餐式の本質的な要素であるという理解が回復されました。それは機能的に言えば、「①すでに洗礼を受けている会衆を洗礼の約束へと立ち帰らせ、②信者のうちに教会の成員であることの意味を更新し、③「聖餐」という礼拝行為へと導くものです」。(黒田裕,『今さら聞けない!?キリスト教II』, 教文館, 2018, p.154)

「説教は、神の言葉をいま確かに聞き、受け入れ、理解したということの証言である。…この行為は…“真理の霊”の永遠の自己証言である。教会は、そこで神の言葉を聞き取り、承認し、永遠に宣言し続ける。説教がそのように働く限り、教会は単に“教義”を解説するのではなく、キリストについての“よき知らせ”を“この世”に向けてまちがいなく宣言し、キリストを証し得る。教会それ自身がつねにみ言葉に耳を傾け、言葉によって生き、それによって教会のいのちそのものが“言葉のうちに増し加わって”ゆくからである。」(アレクサンドル・シュメーマン『ユーカリスト』, 新教出版社, p.105 )

「真の説教の条件は、説教者の完全な自己否定である。説教者は彼自身に固有のもの、与えられた賜物や才能でさえも否定しなければならない。教会の“説教の神秘”は、純粋に人間的な“語る才能”とは対照的に、聖使徒パウロの言うように“すぐれた言葉や知恵によらない”。」(シュメーマン前掲書, p.107 )

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