礼拝覚書(25) 歌う(3)

15. 10月, 2019 • 0 Comments

なぜ礼拝は歌われるものなのか、という問いに、正面から取り組んで書かれたカスリーン・ハーモンの著作『人は何を祝い、なぜ歌うのか – 典礼音楽の神学的考察』(2008)が6年前に邦訳されています(訳:菊池泰子・榊原芙美子,  聖公会出版)。

礼拝で、わたしたちは改めて自らに出会い、また自らの本来あるべき姿に出会うこと。歌うことは、それを促すものであるゆえに本質的な構成要素であるということが丁寧に論じられています。礼拝についての理解をリフレッシュしてくれる議論ですので、抜き書きをご紹介します。

○「そこ(儀式)に集められた共同体は、そこに存在するものとして神に、またお互いに出会う。典礼が、このように各個人の存在同士を出会わせる場となるためには、メンバーは物理的にそこに存在し、またその場に意識を集中させていなければならない。歌うことはそのような意識性を引き起こす。

「私たちが…儀式に参与するときには、罪、怠惰、自己陶酔、不承不承を心に抱えている<にもかかわらず>参与するのではなく、まさにそれらを持つ<ゆえに>参与できる。それらの抵抗は、典礼における共同の歌唱によって、私たちがが儀式へ身を委ねるための基礎となる。歌唱を通じて…私たちは他者に対してよりはっきりと存在するようになるごとく、自分自身にとってもより確かな存在となるのである。…ジョン・ウェスレーはこのことを熟知した上で、会衆に次のように説教している。『すべてを歌いなさい。できるだけ頻繁に会衆と一緒になってごらんなさい。ほんの少しの弱さや退屈も妨げとならないようにしなさい。もしそれがあなたによっての十字架なら、それを手に取りなさい。そうすれば、それが祝福であることを見いだすでしょう。』

○「私たちが経験する二番目の抵抗は、時間が私たちの中に引き起こす変化に対するものである。…私たちには過去へ根付いている部分があり、また未来へ向かう契機を持っており、その上で現在行われている典礼の契機である<今・ここ>において過去・未来の両方に出会うのだが、しかし生来の衝動から<今・ここ>の要求から逃れることによって時間の力に抵抗しようとする。

「私たちは典礼歌唱によって、クリスチャンの存在と自己認識の一番奥にある層の、正に最も重要な地点へと踏み込むのである。つまり、それは、人として存在せよという神の召命の力と、それに対する人間の抵抗の葛藤であり、言葉を換えれば、キリストの体を自己の本質として認識しようとする力と、自己以外のものを中心とする共同体に入ることに対する抵抗との葛藤であり、さらに言えば、変容をもたらす恩寵の力と、変化を拒む私たちの抵抗との間の葛藤である。共同の典礼歌唱は、正にこれらの抵抗を利用することによって、私たちが儀式的行為に身を委ねることを容易にする。

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