礼拝覚書(26) 説教(1)

22. 10月, 2019 • 0 Comments

日本聖公会では「説教」を行えるのは聖職のみとされています。執事按手式の結びで、主教は「これはキリストの福音を宣べ、み言葉に従って神と人とに仕えるために、神があなたに与えられた権威のしるしです」と言い、新たに按手された者に新約聖書を渡します。「説教は神の言葉をこの世界に伝達する教会の公式な宣言」なので、この権威を与えられた者にのみ許されているのです(黒田裕,『今さら聞けない!?キリスト教II』, 教文館, 2018)。

「み言葉の礼拝」の式文で、ルブリックに「勧話または説教をする。あるいは勧話または説教にかえて、当日のみ言葉を分かち合ってもよい」とあるのは、この理解を前提に、信徒が話をする場合、それは「勧話」と呼ばれ、執事が話をする場合、それは「説教」と呼ばれるためです。「勧話」は「奨励」「感話」とも呼ばれ、新約聖書で言われるところの「パラクレーシス(勧め)」にあたります。

ちなみに、プロテスタント教会では、信徒が礼拝、集会で話をすることを、「証(あかし)」「証詞(あかし)」「証言(あかし)」「立証」等と呼びますが、これは新約聖書で言われるところの「マルチュレオー(告白、証し)」にあたります。

しかし、実は「説教」「勧話」という用語の区別は、日本だけでの話で、英国、米国の聖公会で礼拝で信徒が話をする場合、それは日本語にすれば「説教」である「プリーチング(preaching)」という言葉で呼ばれます。礼拝の要素としては「サーモン(sermon)」という言葉で呼ばれます。

プリーチの原語のプレディカチオ(Praedicatio)は、人々の前で公に事柄を告げることを意味する語で、新約聖書で使われているケーリュッソーに近い意味合いの語です。ケーリュッソーとは、神の救済の出来事を宣言することです。ローマ・カトリックでは、プレディカチオは、ミサとは別に為される聖書テキストに束縛されない説教を指す語で、ミサの中で為される聖書日課の講解を行う説教はホミーリア(Homilia)あるいはセルモ(Sermo 英語のサーモン)と呼ばれます。

信徒説教者のことを、英国聖公会では”Occasional Preacher”、米国聖公会では”Lay Preacher”と呼んでいますが、いずれも牧師によって推薦され、主教によって認可(米国)/許可(英国)された人で、法規、指針に従って訓練、試験を受けていることが前提になっています。「説教」「勧話」と呼称を分けるのは本質的でなく、朗読の場合と同じく、聖職であろうと信徒であろうと、神から教会に委託された奉仕を十全に行えるように教会によって整えられていることが必要であって、行うことは同じである、と考えるべきでしょう。「自分なりの」理解を説いてみせる者であってはならない、ということです。

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