礼拝覚書(23) 歌う(1)

26. 9月, 2019 • 0 Comments

聖餐式の式文にルブリックで「歌いまたは唱える」と指示されている箇所があります。ルブリックでは、それを用いるのがより望ましい選択肢を先に書くことになっています。唱えるよりも歌う方が望ましいのです。何故でしょうか。

「礼拝を歌うことも古来からの慣習で、歌わない礼拝は中世期に西部の教会で始められたのです。古来の伝統を守っているギリシア系の教会では、今日でもすべての礼拝を歌っています。信者がみな歌える譜によって礼拝するとき、心を合わせ、声を合わせて礼拝することができます。礼拝は神にささげるもので、ただ礼拝者の気持ちを満足させるものであってはならないのです。」(『公会の慣習とシンボル』ヨハネ修士会,)

「“キリスト教は歌の中で生まれた”、また“古代の人々にとって語ることと歌うことは結びついていた”とエドワード・フォリーはその独特の名著『フロム・エイジ・トゥ・エイジ』の中で言い、音楽学者ゲオルギアーデスは初期キリスト教礼拝の中で言葉と音楽が切り離しがたいものとして結びついた時が、西洋音楽の生誕の瞬間であると述べる。共同礼拝という性格が、主観的色彩を超えた、音楽的に固定された朗唱をどうしても必要としたのだというのが、その理由である。」(『礼拝学日記』, 加藤博道, 聖公会出版)

礼拝は共同体としてささげるものであるがゆえに<歌う>ことが要請されるのです。

さらに、前回のコラムで書いたように、そもそも言葉は<ルーアッハ(霊/風/息)>によって<いのちを与えられる/意味を与えられる>ものであって、<ルーアッハ>はリズムや抑揚を持つものであるがゆえに、言葉は歌われるときにもっともよく言葉となるものだから、ということも言えるのではないかと思います。創世記の第1章2節に「地は混沌として、闇が深淵の面(おもて)にあり、神の霊が水の面を動いていた」とあります。「動いていた」と訳されている語は、鳥が羽ばたく動作を表します。霊は律動を与えて、いのちをあらしめるのです。
「教会の集いの中で成就される“みことばのサクラメント”にあって、聖霊は聖書の“肉体”にいのちを与え、私たちを生かす霊、私たちを生かすいのちに変容します」(『ユーカリスト – 神の国のサクラメント』アレクサンドル・シュメーマン)。祈祷書の文字は聖霊の溢れの中で声に出して歌われて、共同体の内にいのちの言葉として現臨するのです。

「イスラエルの人々は、その食事の前後、あるいは友人を病床に見舞う時、礼拝の時、詩篇と聖書を詠唱した。しかもそれらは地方毎、家族ごとに旋律が異なる等、豊かな多様性を持っていたし、イエスとその弟子たちを含めて、詩篇を唱え、聖書を読むということは歌うことだったのである。」(『礼拝学日記』, 加藤博道, 聖公会出版)

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