礼拝覚書(22) 朗読(3)

20. 9月, 2019 • 0 Comments

典礼改革で、朗読は<聞く>ものであることが強調されなければならなかったのは、<読むこと>が現代の文化では「文字が目を通して心に語りかけてくる視覚的活動」になっているためです。そのため、朗読を聞くときも目で文字を確認しながらでないと落ち着かないのです。

しかし、<読むこと>は、本来、「口を動かしてその内容を聞き取る活動」です。書物は「自分の声が自分の耳に向かってそれらを歌うがゆえに、わたしの胸の中で鳴り響く」もの、「音を奏でて歌う」ものです。日本語の「読む」という言葉も、「文字の音を唱える。意味を理解する」の意味です(『大辞林』)。インド系の言語でも「読む」と訳される動詞は「音を出す」という意味合いの言葉であり、その同じ動詞が七弦琴を演奏することにも使われます。

音楽がそうであるように朗読も社会的活動です。それは「共同体の意思交換を促進するもの。すなわち、読まれた章句を共通に消化し論評することへと積極的に導くもの」です。礼拝で聖書が朗読され、それを聴くとき、わたしたちは共同体としての活動を為しているのだ、ということを意識したいのです。

また、そうして<読むこと>は、そのまま「意味を理解すること」でもあります。日本語の「読む」もその意味を持っていますが、子音字のみで語を書き記すヘブライ語では「読む」ことはまさにその作業です。書かれた言葉を読むには適切な母音を補って読む必要があり、発音する前にその文の意味を理解しなければならないからです。イヴァン・イリイチがそのことを含蓄に富む言い方で指摘しています。

「ユダヤ人やアラブ人は伝統的に、文字を読む場合、その文字に息ruahを吹き込む解釈作業に従事しています。たとえばruahの場合、三つの子音字が一つの観念を表しているのですが、その三つの子音字に息を吹き込むことによって、骨状のそれらの文字は互いに組み合わさり、この小さなことばはふたたび立ち上がるのです。」

母音は息を吐くことで発音します。ヘブライ語で、その<息>は、神が命を与えるために吹き込まれたものであって、<霊>も意味します。それで、イリイチは、子音に母音を付けて発声する作業である朗読のことを「息を吹き込む解釈作業」であると言い、エゼキエル書37章に重ねて述べているのです。

「枯れた骨よ、主の言葉を聞け。今、私はあなたがたの中に霊を吹き込む。するとあなたがたは生き返る。私はあなたがたの上に筋を付け、肉を生じさせ、皮膚で覆い、その中に霊を与える。するとあなたがたは生き返る。こうして、あなたがたは私が主であることを知るようになる。」エゼ37:5-6

聖書の朗読は、生ける神の言葉の語りかけをきくことであって、後で引き出すべき何かを蓄える活動ではないのです。それは神の語りかけを聞いたアブラハムがそうしたように、「より明るい場所へ、つまり光の方へ、そして光の中に向かって行く巡礼の旅なのです。そして、光があまりにも強烈になったときには、もはや読むことをやめ、そこに佇むような、そうした活動なのです。」

(※引用文はすべてイヴァン・イリイチの『シャドウ・ワーク』及び『生きる意味』から)

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