礼拝覚書(21) 朗読(2)

13. 9月, 2019 • 0 Comments

○ 前回、朗読のとき、「同時に文字を目で追って見るというようなことは、難聴などの補助手段として必要な場合を除いて、なるべく避けるようにします」という土屋吉正神父の注意を紹介しました。

これは旧約聖書、使徒書、福音書、すべての朗読についての注意で、そのため礼拝では読むことを促していると受け取られないように、朗読個所の章・節の指示はしないことになっています。米国聖公会でも、聞くことが困難な場合を除き、朗読を聞きながら目で文字を追うのは望ましくなく、章・節の指示は省く方がよいとしています。

日本聖公会では、旧約聖書、使徒書、福音書のいずれの朗読でも章・節の指示をすることになっていて、「一同福音書の方を向く」福音書のときはともかく、旧約聖書、使徒書では目で文字を追っている方が多いのではないかと思います。しかし、「神が朗読者を通して語られる言葉を、その時、新たに聴くこと」なのですから、聖書日課は事前に読んでおき、礼拝では耳を傾けることに集中するのが望ましいのです。

○ 朗読は、3世紀頃に聖職者の務めのひとつとなり、やがて司祭職の準備段階で与えられる役務として理解されるようになりました。第二バチカン公会議(1962)以後、朗読は信徒の奉仕職として積極的に位置づけられるようになりました。

朗読がかつて聖職者の役務とされていたのは、朗読に朗読者自身の理解が表れるからでしょう。流暢でも、読む人が理解していないと、聞く人も理解できないものです。読む人の理解は抑揚や間の取り方などに自然と表れ、理解が伴わない朗読は無意味な音の連鎖のようになってしまうからでしょう。そう聞くと「自分には無理!」と思われるかもしれませんが、これは逆に言えば、「理解は自分自身で声に出して読むことから」ということでもあるのです。準備で何よりもまず大切なのは、声に出してゆっくり読むこと、何度でも繰り返し読むことです。

聖書の朗読は、祈ることに他なりません。祈りなのですから、それは他の人と優劣がつくようなことではありません。何か客観的な基準に照らして合否がつくようなことでもありません。そして、祈りであればこそ、必ずその朗読者を通してこそ伝わるものがあるのですから、「上手な人」がすればよいというものでもありません。足りないことは神さまが補ってくださることを信頼し、誠心誠意奉仕すればよいのです。

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