礼拝覚書(20) 朗読(1)

8. 9月, 2019 • 0 Comments

「キリストは、常にご自分の教会と共におられ、…ご自身のことばのうちに現存しておられる。それは、聖書が教会で朗読される時、キリスト自身が語られるからである。」(第2バチカン公会議『典礼憲章』7条)

「朗読者は、会衆席の最前列の聖書朗読台になるべく近いところに座るようにしましょう。司祭が“聖書のみ言葉を聞きましょう”と唱えてから、後方の座席から出てくることのないようにしましょう。」(『礼拝と奉仕』桑山隆, 聖公会出版, 2002)

「正式の典礼朗読は、神が朗読者を通して語られる言葉を、その時、新たに聴くことですから、同時に文字を目で追って見るというようなことは、難聴などの補助手段として必要な場合を除いて、なるべく避けるようにします。そのためには、朗読者ばかりでなく参加者一同も、その日の箇所を前もって読んでくることが必要なのです。…

「聖書の本文は、句読点通り正確に区切って、流暢に、しかし意味が正しく、はっきり聴き取れるよう、適切な間を置き、だれもが、どんな心境の時にでも受け入れやすい、客観性のある読み方をすることが大切です。

「従来、ラテン語でrecto tonoという西洋の朗読法の影響もあって、抑揚を全くつけないで棒読みすることが客観的な朗読であるかのような朗読法が、神学校をはじめ、一部に行われていました。しかし、日本語のアクセントは音の高低による要素が大きいので、棒読みにすることは日本語の特徴を無視することになり、ことばを本当に活かした朗読にはなりません。

「また反対に、抑揚を付けすぎたり、感情を込めすぎたり、時には声色を変えたりして芝居がかった演出をすることも、典礼にふさわしいとは言えません。主観に流されることのないように、抑揚をつけることはやや控えめにしながらも、落ち着いて冷静な態度で聖書の客観的な表現にふさわしい読み方をするためには、まず自分自身が内容をよく、正しく理解して、確信をもって読むことが必要です。

「聖書朗読は、正に神の“ことば”と“わざ”の告知であり、その“あかし”としての信仰告白ですから、いつも客観性が要求されているのです。」(『ミサがわかる』土屋吉正, オリエンス研究所, 1989)

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