礼拝覚書(17) 礼(1)

31. 7月, 2019 • 0 Comments

伝統的キリスト教が保っている所作の内、プロテスタント的感覚で見て最も違和感を持たれるのが「礼」かもしれません(十字を切ることもかもしれませんが、おそらくそれ以上に)。宗教改革で排除しようとした偶像崇拝的なものをそこに見てしまうからです。東方教会の信者がイコン等に口づけしているのを見ると「信仰の対象が違うのではないか」と思ってしまうのです。

19世紀半ばに聖公会を含む宗教改革を経験した教会の信者が、パレスチナに「巡礼」でなく「旅行」をするようになった時、かれらは一様に伝統的な巡礼者たちの様子を見て嫌悪感を抱きました。そのような「野蛮」な慣習は払拭され、「文明」化されるべきだと考えました。東方に対するそのような見方が「イスラエル建国」を支持するひとつの基礎になり、また現在もイスラム教に対する嫌悪に引き継がれています。

これはおそらく宗教改革以前から始まっていた変化、アレクサンドル・シュメーマンが西方教会を批判して言うように、「全宇宙を包含する教会全体の行為が、予約しておいた日時に教会の片隅で執行される個人的な儀式へと変わってしまった」結果であろうと思います。(『世のいのちのために』, アレクサンドル・シュメーマン)

「今日、あなたはわたしを土地の面(パニーム)から追放した。そして、わたしはあなたの顔(パニーム)から隠される」(創世記4:14)というカインの言葉が示すように、この世界は「神との交わり」として、神の存在を経験する手段として、与えられていたにもかかわらず、きょうだい殺しの罪を犯した結果、この世界は逆に「それ自体が目的とされるもの」、偶像崇拜の対象に堕落してしまいました。

しかし、キリストの十字架の死と復活の内にいのちは再び神との全き交わりへと回復されたのです。キリストヘの信仰において「世界はそのとき真にキリストの存在の機密(サクラメント)、神の国と永遠のいのちの成長の場になります。…世界は死ではなく、その真の理解とともに再びかれのいのちとなります。喜びと人間性の真の力が取り戻されます。」(シュメーマン)

口づけをしたり、お辞儀したりするのは、この信仰において、神との交わりを与えるものとして、敬意を表しているということなのです。死となった世界にひれ伏しているのではなく、それからの離脱(キリストと共に死ぬこと)を前提に、与えられた新しいいのちへの感謝、喜びからそうしているのです。それはシスター・ジョアンが指摘するように、西方教会でも元来は持っていた理解、現在でも辛うじてかもしれませんが保たれているはずの理解です。

「多くの修道院では、祈りをささげるためにチャペルに入る際、祭壇に向かっておじぎをした後、共に行列で歩くシスターの方を向いておじぎをする慣習があります。そのような修道院の慣習の意味は明らかです。神は、チャペルにおられ、祭壇上におられるのと同様に、自分たちを取り巻く世界におられ、互いの中におられる、ということです。神は人生の内実です。わたしたちの魂そのものの息です。神は、いのちを、そのあらゆる形において、より深く理解するように求めておられます。」(ジョアン・チティスター)

Leave a comment