礼拝覚書(11) ルブリックにない会衆の所作

26. 6月, 2019 • 0 Comments

教会の大切な伝統のすべてが祈祷書に記されているわけではありません。慣習はルブリックに書かれていなくても、どうでもよい、意味がない、ということを意味しません。また、明示的に禁じられているのでなければ、禁じられているわけではありません。

所作は、各人の信心の表現であり、各教会で育まれる文化であるので、ルブリック(礼拝細字規定)として細かく指示されていないのです。所作は敬虔を表現するだけに、しないことが不敬虔なことであるかのように感じられることになってリタジーを歪めることにもなりかねないので、その感情を過剰に強調しないように、ということもあるでしょう。

例えば、ご聖体を噛んではいけない、歯を立ててはいけない、と言われることがあります。イエスさまが「わたしの肉に齧りつけ(トローゴー)」(ヨハネ6:54)と言われたのにも関わらずそう言われることがあるのは、ひざまずく姿勢が取られるのと同じく、ご聖体への「恐れ多さ」が強調される結果です。古代教会では、恐れ多さの強調のあまりに、聖餐式は「戦慄の食卓」等とも呼ばれ、聖餐式の回数まで減ることになってしまいました。しかし、そもそも聖餐式は、主の喜びにあずかる式です。「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるため」と言われ、自らを与えてくださったイエス・キリストの御体にあずかるのです。恐れ多さを覚えるのは当然だとしても、そのあまりに喜びを感じられないとしたら、それどころか間違いを起こしてはならない、といった意識に囚われるのなら、何の式だか分からないことになってしまいます。

では、所作はどうして大切なのでしょうか。パウロは、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」と言いました(ローマの信徒への手紙10:9)。心で信じているから言い表す必要はない、ということはないのです。わたしたちの信仰は、わたしたちを世に派遣する信仰です。だから、わたしたちは、口で、身体で、言い表すのです。

「『身体とは、親なる神の愛と子なる人の魂がふれあう場所である』という言い方も可能かもしれません。人はその身体で神の愛を受け止め、その身体で神に賛美と感謝をささげているということです。」(『十字を切る』晴佐久昌英, 女子パウロ会)

※ プロテスタントは所作を迷信的な行為と見るような感覚を持つに至っていますが、ルターは『小教理問答書』で、十字を切ることを勧めています。「朝、起きたらすぐに、聖なる十字架のしるしによって自分自身を祝福し、次のように言いましょう。『父、子、聖霊なる神さまのみ心がなされますように。アーメン』。それから、ひずまずいても立ったままでもよいですから、使徒信経を述べ、主の祈りを唱えなさい。」

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