礼拝覚書(7) 祈祷書の大切さ

2. 6月, 2019 • 0 Comments

祈祷書を開いた最初のページに何と書かれているかご存知でしょうか。「本書は原本と相違ないことを証明する。祈祷書等検査委委員」とあります。森紀旦主教は『マラナ・タ – 楽しい「日本聖公会祈祷書」入門』で、この文言に注意を促して、「原本と違っている祈祷書が全国的に広がっていること、つまり“その教会独自のコピーによる聖餐式文”を嘆きたいのである」と述べられました。便利なのに、どうしてでしょうか?

森主教は、そのエッセイでは、せっかくその時々に用いる言葉をふさわしく選べるよう工夫されているのに、その教会で使わない選択肢が削除されてしまっていることを特に嘆かれたのでしたが、コピーを使うことで祈祷書を手にしなくなることのもたらす弊害はそれだけではありません。

祈祷書を大切にしたい第一の理由は、それが単なる礼拝式文集ではなく、信仰生活に具体的な指針と目に見える秩序を与えてくれるものだからです。祈祷書は、「ゆりかごから墓場まで、神のみもとに至る旅路が、イエス・キリストを中心にして展開されているもの」であって、「それに従う新生のリズムに躍動する生活において、恵みから恵みへと導かれてゆく」のです。ですから、たとえ礼拝ではチャントの曲譜を参照する必要等からコピーを使うとしても、祈祷書は聖書と共に常に手もとに置き、親しむべきなのです。

第二の理由は、祈祷書は、聖書と切り離せない関係にあるものだからです。英国教会で祈祷書が作成された時に、その意図として最も強調されたのは、聖書の言葉に養われた信仰生活をできるようにする、ということでした。そのために一年で聖書の大部分を読めるように教会暦と日課が整備されました。また、もっと根本的なこととして、そもそも聖書はつねに伝統に照らして、すなわち礼拝で経験されるものに解釈の鍵を与えられて読まれてきたのであり、その伝統を教えるのが祈祷書である、ということがあります。古代教父エイレナイオスは「われわれの教えはわれわれが聖餐において行っていることと一致しており、聖餐の祝いはわれわれが教えることを確立する」と述べています。

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