礼拝覚書(4) 主の祭司として

9. 5月, 2019 • 0 Comments

世に対する公の奉仕である礼拝、わたしたちはそれを何者として為すのでしょうか。

聖餐式をささげる時、わたしたちは感謝の祈りの中で、そのことを言い表します。「父は、み子を人として生まれさせ、十字架の死と復活によって、わたしたちを罪の鎖から解放し、み子をご自身の右に挙げられました。そして聖霊を送り、わたしたちを神の民としてみ前に立たせ、主の祭司として主とすべての人々に仕えさせてくださいます。」(感謝聖別文Ⅰ, 祈祷書 p.173)

これはヨハネの黙示録で言われていることです(復活節第三主日の日課)。「…あなたは、屠られて、あらゆる種族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民の中から、御自分の血で、神のために人々を贖われ、彼らをわたしたちの神に仕える王、また、祭司となさったからです。」(5:9-10)

わたしたちは、主の祭司として礼拝をささげるのです。そのことに信徒、聖職の区別はありません。男、女の区別もありません。

そもそも人は「祭司」として創造されました。神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた、と創世記にあります(2:19 ※これは「人」が男と女に分けられる前のことです)。「名付けるとは、そのものに代わり、またそのものの内に神を賛美すること」です。それは祭司の働きに他なりません。人は、本来、すべていのちあるものの祭司なのです。

「彼/彼女はこの世の中心に立ち、神を賛美し、神からこの世を受け取り、そして受け取ったこの世を神に献げるという両方向の行為を通じてこの世をひとつにします。そして、この世を感謝で満たし、この世から受け取った彼/彼女自身のいのちを神の内にあるいのちに、神との交わりに変容します。…人はこの宇宙的なサクラメントの祭司なのです。」

モノ、ワタシ、それ自体に価値を見、それ自体を目的とする生き方(偶像を崇拜する生き方)に堕落して神から離れ、祭司としての在り方を放棄していた私たちは、十字架において人の本来の在り方を回復されたキリストの霊を受けて、祭司としての在り方を回復され、礼拝をささげるのです。

※ 引用は『世のいのちのために』(アレクサンドル・シュメーマン, 新教出版社)から。文意を変えない範囲で語句を若干修正しています。

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