礼拝覚書(1) 礼拝とは

20. 4月, 2019 • 0 Comments

※甲府聖オーガスチン教会の週報のコラム用に書いたものです。

礼拝とは何でしょうか。祈りをささげることでしょうか。だとすれば、自宅でひとりで祈りをささげても、礼拝したことになるのでしょうか。

礼拝をささげる集まりは、ユダヤ教では10人の出席者がいなければ成立しません。キリスト教では2人の出席者がいなければ成立しません。 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタ18:20)と、イエスさまはお教えになりました。シナゴーグから排除された初代教会のキリスト者にとって、二人または三人がいれば礼拝が成立するという教えは大きな励ましになったことでしょう。

重要なことは、礼拝は、個人の行為ではなく、共同体の行為である、ということです。礼拝は、ギリシア語でレイトゥルギアと言います(英語のリタジー)。レイトゥルギアの語源は、ラオス(共同体を構成する民)のエルゴン(働き、仕事)です。一言でいうと「公共奉仕」です。

ただし、礼拝に先立って、また礼拝と関係なく、それを献げる共同体が既に存在している、というわけではありません。礼拝を通して、初めて、人々の集まりが単なる個人の群れではなくて、ひとつの共同体へと形成されていくのです。わたしたちは神さまに召し出され、礼拝において「神のエクレシア(民会)=“教会”」になるのです。

そして、礼拝は、それ自体が、この世に対してキリストとそのみ国を証しする奉仕であって、それゆえにレイトゥルギアと呼ばれます。礼拝は、この世と関係のない、集まった者たちが行う私的行為ではないのです。また、礼拝の中で個人に割り当てられる役割を為すことや、礼拝以外にする諸々のことばかりが奉仕なのではありません。礼拝に参加すること自体がもっとも大切な奉仕なのです。

主の喜びに入り、その証人になること、それが礼拝であって、奉仕の本質です。

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