善きサマリア人のたとえ

14. July, 2016 • 0 Comments

(聖霊降臨後第8主日(特定10)申命記30:9-14, ルカ10:25-37)

7月1日金曜日、ヨルダン川西岸地区、ヘブロンの近郊で、「善きサマリア人のたとえ」を地で行く出来事がありました。

ユダヤ人入植者の家族が乗った車が、道路脇から銃撃を受け、運転していた父親が死亡し、車がひっくりかえり、同乗していた母親と子どもたちが車に閉じ込められました。たまたま、そこに、パレスチナ人難民のアル=バイードさんが通りかかりました。車のエンジンはまだ動いていて、ガソリンが流れ出ており、今にも引火して爆発するのではないかという状態でした。車の中からはヘブライ語で「助けて」と子どもが叫んでいました。アル=バイードさんはイスラエルでの仕事で覚えたヘブライ語で子どもに話しかけて落ち着かせながら、ドアをこじ開け、二人の子どもとその母親を引っ張り出しました。一緒にいたアル=バイードさんの妻は元看護士で、二人で救急治療を施しました。

銃撃を受けて死んだ父親、ミキ・マークは、その近くの入植地にあるユダヤ教の神学校の校長でした。入植地というのは、グリーンライン=停戦ラインのパレスチナ側の土地に、国際法に反して建設されているユダヤ人専用居住地です。イスラエルのユダヤ人の中でも最も過激で戦闘的な民間グループが、その土地に元々住んでいたパレスチナ人を暴力で追い出して作っています。イスラエル政府は、それを黙認し、サポートし、さらには実質的に自国領土と同じ法的な扱いにすることで、既成事実化しています。今、ヨルダン川西岸地区でパレスチナ人の人口280万人に対して、ユダヤ人入植者の人口は30万にもなっています。イスラエル国を建設したシオニズム運動は、元々は非宗教的な運動で、伝統的なユダヤ教を否定して、それに換えてユダヤ民族主義を唱え、社会主義の理想を実現しようとした運動でした。それはまた、非西欧文明の人びとの住む地を「無住の地」としてそこに植民するという19世紀的な植民地主義の性格を持つ運動でもありました。しかし、この30年ほどの間に、過激な宗教的原理主義が台頭して、シオニズムを「宗教」化し、少数派でありながらも強い政治的影響力を及ぼすようになっています。入植地建設の先頭に立っているのはその宗教的原理主義者たちで、ヘブロン周辺はその巣窟として特に有名な場所なのです。銃撃を受けて死んだ人は、そういう場所にある神学校の校長だったのでした。

彼の家族を助けたアル=バイードさんは、1948年のイスラエル建国の際に難民になった両親から生まれました。先祖伝来の地にありながら、難民キャンプでの生活を余儀なくされています。9年前、2007年には、石を投げた容疑で逮捕されて、本人はその容疑を否認したにもかかわらず、7ヶ月間監獄に入れられていたこともありました。この出来事の後、彼はインタビューを受けて、次のような趣旨のことを語っています。

「ユダヤ人入植者とイスラエル軍は、パレスチナ人に残酷なことをしている。半世紀近くになる占領は終わらされなければならない。わたしたちは、その犠牲になっている。ただ、わたしはそう考えているが、家族を養うのに精一杯な『普通の』男で、政治活動はしていない。入植者の家族を助けた後、近所の人からは、お前は正しいことをした、とも言われたが、助けるべきでなかった、とも言われた。でも自分は後悔していない。わたしは難民だ。わたしの家族は家を故郷を追われ、惨めな難民キャンプで暮らしている。でも、われわれは、まず第一に人間なんだ。わたしは、ただ人間らしく行動しただけで、これからも常にそうするだろう。」

毎週木曜日、東エルサレムで超教派の祈りの集いがあって、そこで献げられる祈りは事前に世界中に発信され、共有されています。先週は、この出来事を受けて、次のように祈りました。

「主よ、わたしたちは、あなたの地にあって、よきサマリア人の話を読み、省み続けます。互いの間にある違いによって自らの人間性を損なうことのない人々のゆえに感謝します。

アル=バイードさんは、「わたしたちは、まず第一に人間なんだ。わたしは、ただ人間らしく行動しただけだ」と話しました。サビールの祈りでは「互いの間にある違いによって自らの人間性を損なうことのない人々のゆえに感謝します」と祈られました。

アル=バイードさんの話でも、サビールの祈りでも強調されている、humanity=人間性。「よきサマリア人のたとえ」で、イエスさまは、この「人間性」ということについて、わたしたちが持っている理解に対して問いを投げかけ、教えておられます。「人間性」という概念は、決して世俗主義の専有物ではありません。わたしたちの信仰理解の根本をなすべき概念なのです。

本日の福音書の前半では、しばしばその結びの「では、わたしの隣人とは誰ですか」という律法の専門家の問いばかりが注目されがちですが、後半のたとえを読む上でまずもって大事なのは「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」という最初の問いです。

マタイやマルコの並行箇所では、「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」という問いになっているところが、ルカでは、「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」という問いになっています。おそらく元々の伝承では、マタイやマルコが伝えるような形だったのでしょう。マルコやマタイが伝える形では、ただの教理問答のように読まれかねないところを、ルカは、最初の問いを、「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と言い換え、それに対する答えとして「よきサマリア人のたとえ」を置くことで、イエスさまの驚くべきラディカルな教えの含みを明らかにしているのです。

律法の専門家の問いかけが前提にしているのは、ユダヤ人だけが救われるのだ、しかも、正しく律法を守って信仰生活を送るものだけが救われるのだ、という理解です。

それに対して、イエスさまは、異民族と混血し、神殿に異教の併存をゆるし、しばしば外国からの占領者と結託してエルサレムに敵対してきたサマリア人を、永遠のいのちを受け継ぐことを得させる行動をした人として、たとえ話で語られました。

しかも、その核心の部分をイエスさまは、このように語られました。「ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を憐れに思い、近寄って傷に油と葡萄酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。」

「憐れに思い」と訳されている言葉の原語は、肝臓という言葉から派生した「スプラクニゾマイ=はらわたをちぎられる思いをする」という、聖書では、神を主語にする場合にしか使われない語で、この「憐れむこと=はらわたをちぎられる思いをすること」は、神の心の核、神の救済行為の原理であると理解されています。

よりによって、ユダヤ人にとって「神を信じていないもの」、「正しい宗教生活を送っていないもの」の代表格であるサマリア人が、その神の心で行動し、それゆえに永遠の命を受け継ぐことを得た、とイエスさまは語られたのです。自分たちの宗教に属する者だけが人間であり、同胞と考えられるべきで、その宗教だけが保持する真理を学び、それを実践することによってこそ救われる、というような理解は間違っている、と言っておられるのです。たとえ話に祭司とレビ人を登場させることで、イエスさまは、このことを強調されています。

そうではなく、宗教、民族に関係なく、すべての人間が、神さまによって、神さまの似姿につくられ、神さまの息を吹き入れられて命あるものとされているのであり、すべての人間の中に神の子となるための朽ちることのない種、み言葉がすでに蒔かれているのであり、すべての人間にみ言葉を生きるために必要な力、感性が与えられているのだ、と言っておられるのです。旧約の日課の結びで「み言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」と言われているとおり…。

イエスさまはわたしたちが持つ「人間性」の理解を宙づりにされ、十字架に至るご生涯において真の人間性を現されました。それによって、わたしたちに復活の希望を、<新しい人間>として生まれて神の国に生きる者となる希望を与えてくださいました。互いの間にある違いによって自らの人間性を損なうことなく、自らの内に蒔かれてある種の成長を妨げることなく、何者であるよりも前にまず<人間>である者として愛し合い、歩んでまいりましょう。

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