V. 幻視 (Vision)

21. April, 2016 • 0 Comments

※ジョアン・チッティスター著“Illuminated Life – Monastic Wisdom for Seekers of Light”(Orbis Books, 2000)の翻訳。長坂聖マリヤ教会週報2016/4/24,5/1掲載。

師父ザカリアが幻を視て、彼の霊父である苦行者カリオンにそれを告げた。カリオンは腹を立てて師父を打ち叩き、それは悪霊からのものであると言った。ザカリアは師父ポイメンを訪ね、この出来事を話した。師父ポイメンは彼の真摯な様子を見て、神秘家である修道士のもとに彼を送った。修道士は、ザカリアがまだ話さないうちに彼が視た幻を知って、それは本当に神からのものであると言った。そして、「さあ帰って、霊父に従いなさい」と諭した。

<幻>(Vision)を視ることと<幻影>(visions)を視ることは異なります。このことについての砂漠の師父たちの見解は明確です。幻影を視ることは心理的な現象であり、人がいかに生きるか、いかに成長するか、といったことと何の関係もないかもしれないことです。霊的な賜物であることもあるかもしれません。しかし、それらの多くは感情の高ぶりの所産に過ぎません。歴史上、最も観想的であった人々は、ただの一度も幻影を視ることはありませんでした。ヒルデガルト(1098-1179)は視ませんでした。マイスター・エックハルト(1260-1328)は視ませんでした。アビラの聖テレサ(1515-1582)は視ませんでした。彼らは神の臨在を知っていましたが、ただの一度としてその物質的な現れを視たと主張することはありませんでした。彼らは幻影を視る代わりに幻を視ました。

幻は物質的なものではありません。それは魂の質です。幻を視る人は、レーザー光のごとく、生活の中の神の臨在に達します。血を流し、苦しみ、分かれ争うこの世を、神がご覧になるのと同じように、ひとつなるもの、聖なるものとして見ます。愛に富みたもう神を愛するが故に、神のものであるこの世を、神が愛されるように愛さずにはいられません。神が愛されるように愛そうとします。彼らは、あらゆるところに、あらゆるものの中に、神を視ます。彼らは、個人的、排他主義的、愛国主義的、党派的な要求、あるいは教義上の要求さえも超えて、世のすべてを心に懸けておられる神の御心に従います。肌の色、性差、位階、場所についてのちっぽけでくだらない政治課題に囚われることがありません。神の御心に捉えられて生き、その到来のために自らを費やします。霊的な自己満足に陥ったり、霊的な優越主義を身につけることがありません。霊的な生活に取り組み、そこから何かが得られることを期待したり、霊的成長の印となる神秘的な徴を求めたりしません。ただ、為さなければならないことを為すだけです。すなわち、すべてが自分にとって神のみ顔となるまで、神のみ前に沈潜するのです。

観想は、ペテン師、テレパシー能力者、魔術師が行うことではありません。観想は、とても基本的で、とても現実的なことを目的とするものです。すべての人の中に神を視ること、あらゆる場所で神を見いだすこと、人生で経験されるすべてのことを神からのメッセージとして受け止めてそれらに応答することを目的とするものです。観想は、幻影のロードショーではありません。観想は、霊的なガマの油ではありません。観想は、存在の高められた状態ではありません。観想とは、ただ身のまわりのものの中に<究極なるもの>を意識することです。

本物の霊性は、この世への無関心、あるいは、あの世への関心の内に人生から逃避しながら費やすようなものではありません。観想者は「幻影」を求めません。ただ神を、自分の内と周りとにおられる神を、他者の中、すべてのものの中におられる神を、善なるもの、真実なるもの、普遍的なる愛、普遍的なる平和の内におられる神を知ることを求めるのみです。観想者にとって、神は手品ではありません。神は、自らの息する息そのものなのです。

観想者になるためには、幻を視なければなりません。この場で、この時に、神を視ることができるようにするために、日々何であれ為さなければならないことを為すための幻を。たとえ、どんな代償を払おうとも。

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