復活の主の愛

12. April, 2016 • 0 Comments

復活節第3主日(C年)説教(ヨハネによる福音書 21:1-14, 詩編第30篇, ヨハネの黙示録5:6-14)

loaves-fish_pngヨハネによる福音書の復活記事の特徴は、どんなところにあるでしょうか。

◆ ひとつ目の特徴は、復活の主が弟子たちに現れた出来事が主日礼拝に重ねて語られている点にあります。

1回目、2回目の出来事では、共に、週の初めの日、すなわち日曜日に、弟子たちが家で戸に鍵をかけて集まっていると、その真ん中にイエスさまが立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。

わたしたちは毎主日、「主イエス・キリストよ、おいでください」、「弟子たちの中に立ち、復活のみ姿を現されたように、わたしたちのうちにもお臨みください」と唱えて、そのことを記念しています。知らず知らずの内に自らの内にも外にも扉をしめ、鍵をかけて生きている私たちのただ中にも、復活の主が姿をお見せになり、恐れを喜びに、不信仰を信仰に変えてくださることを願って、礼拝に参入するのです。

本日読まれた使徒書、ヨハネの黙示録第5章でも、キリストが真ん中に立ち、復活のみ姿を現されたことによって、天上でも礼拝を献げることが可能にされたことが記されていました。「また、わたしは見た。玉座と四つの生き物の真ん中に、そして長老たちの真ん中に、小羊が立っているのを。屠られた姿の。七つの角と七つの目を持って。それらは全地に遣わされる神の七つの霊である。」(ヨハネの黙示録 5:6)

そして、「あなたがたに平和があるように」という挨拶を受け、十字架における死とその愛の業を覚え、復活の主の息=聖霊を吹き入れられて世に派遣される、というように、伝統的な教会の聖餐式で守られている要素によって、これら最初の2回の復活の出来事は伝えられているのです。

十字架における死とその愛の業を覚えることで心の目を開かれ、それによって初めて復活の主を見て、信じることができるのだ、という理解が強調されている点も注意したいところです。私たちにとっても事情は同じだからです。これはルカによる福音書でも強調されていることです。弟子たちは、ご復活の主が姿を現されても、心の目を開かれるまでは、それがイエスさまだと分りません。ギリシア語の原文では「見る」という動詞も使い分けられていて、ただ普通に見る場合はセオーレオーという動詞、心の目で見る場合はホラオーという動詞で表現されています。「どうだ、あらかじめ言っておいたように、私は復活しただろう。私が正しかったことが分かったか」と言わんばかりに復活のみ姿をすべての人々に対してお見せになった、ということでは、決してなかったのです。

ちなみに、1回目、2回目の記事にある「イエスが来て真ん中に立ち」という表現、3回目の記事にある「イエスが岸に立っておられた」という表現、そしてヨハネの黙示録の「小羊が立っている」という表現は、「立つ」という言葉自体で「復活」が意味されています。「復活」は、原文のギリシア語では、「目覚めさせる、起こす」という意味のエゲイローという動詞の受動態か、あるいは、「起きる、立ち上がる」という意味のアニステーミという動詞の能動態やその名詞形で表現されます。「立つ」という言葉は、このアニステーミと語根を同じくするヒステーミという動詞で言い表されているのです。「復活」とか「よみがえり」という日本語での表現では、元のギリシア語でのこれらの表現にはない「再び」という意味が強調されていて、「復活」が元の身体に蘇生することであるかのように受け取られているきらいがないでしょうか。「復活」とはそういうことではなく、新しいからだ、新しい命に生まれることです。「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ15:42-43)

◆ 二つ目の特徴は、復活の主の愛が強調されている点にあります。

悲しみの内にあったマグダラのマリヤは、復活されたイエスさまが目の前に立っているのを見ても、それがイエスさまだと分りませんでした。その彼女に、イエスさまは「マリヤ」と名前をもって呼びかけ、えぐられて穴の空いたようになっていた心をやさしく満たされました。

疑いと惑いの内にあったトマスには、イエスさまは、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」と呼びかけ、虚無の闇のうちに自らを閉ざしていた彼の心にお触れになって、やさしい光で満たされました。

本日の福音書では、このことが聖餐式に重ねる形で語られています。

ガリラヤ湖では、魚が夜間には表層に上がってくること、また夜間には網が見えなくて魚が警戒しないことから、漁は夜間に行われていました。一晩中、仕事をするわけですから、漁師は朝食をたくさん食べます。ところが、ペトロたちは一晩中かかっても1匹の魚も捕ることができず、岸に戻っても、パンのおかずにするものがなかったのです。肉体的にも精神的にも疲れ切っていたことでしょう。

その彼らの前にイエスさまが立たれます。しかし、彼らはその人がイエスさまだということが分りません。その人に「子たちよ、おかずにするものを持っていないか」と問われ、彼らはぶっきらぼうに「ないよ」と答えました。日本語訳では、「ありません」という丁寧語に訳されていますが、原文では英語の「ノー」にあたるギリシア語の「ウー」の一語で弟子たちは答えています。イエスさまは「子たちよ」とお呼びかけになっていますが、ここで使われている「子たち」という言葉は「乳飲み子」を意味するパイディアという言葉で、比喩的に「まだ理解が未熟な者たち」という意味で使われたり、あるいは「わたしの赤ちゃん」というような愛情を込めた表現として使われたりもする言葉です。福音書の他の箇所にも「子たちよ」という呼びかけはありますが、ここ以外ではテクナという言葉が使われています。テクナというのは、単に「小さな子どもたち」を意味する言葉です。イエスさまは、そのテクナではなく、パイディアという言葉で、弟子たちにお呼びかけになっています。理解の未熟な弟子たちに、愛情をこめてお呼びかけになったのです。

その見知らぬ人は「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」と言います。きっと弟子たちは、その言葉を聞いて、そんなことをしても無駄なことだ、という思いを持ったことでしょう。もう明るくなっていたのですから。しかし、「パイディア」という呼びかけに感じるところがあったのでしょうか、言われたとおりに、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができませんでした。

この奇跡には、ふたつの意味が重ねられています。「漁」は、文字通りの意味で肉の糧を得るための仕事としての「漁」であるだけでなく、共観福音書におけるのと同様に(「人間をとる漁師にしよう」マコ1:17,マタ4:19,ルカ5:10)、闇の中に囚われている命を神の光の中にひきあげる、という宣教を意味する「漁」でもあるのです。湖はこの世を、舟は教会を象徴します。十字架の出来事の直後には恐れて家に閉じこもっていたペトロが、「わたしは漁に行く」と言い、他の弟子たちも「わたしたちも一緒に行こう」と言って、出て行き、舟に乗り込んだ、という何気ない記述は、その意味で読むと感動的ではないでしょうか。しかし、そうして再び歩み始め、一晩中働いたにもかかわらず、何もとれなかった、というのです。これが、わたしたちが経験する労働の現実、宣教の現実でしょう。ところが、その砂をかむような思いをさせられる現実、空しく報われないと感じさせされる現実が、イエスさまの言葉によって、溢れるほどの恵みに、命に養いを与える食物に変えられたのでした。カナの婚礼を思い起こさせられる奇跡です。

ここに至り、弟子たちはその見知らぬ人が主であることを悟ります。命の糧を与えてくださる方、それも溢れるほどに与え、霊と肉の飢えを満たしてくださる方は、他に誰がいるでしょう。嘆きを踊りに変えてくださる方、粗布を解き、喜びの着物に変えてくださる方は、他に誰がいるでしょう。

陸に上がってみると、すでにちゃんと食事は整えられていました。そこに弟子たちがそうして取った魚も加えられました。わたしたちの労働の実りも主は用いてくださるのです。そして、この記事は、「イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた」という聖餐式と重ねて言われる言葉で結ばれるのです。

神の力ある業は、神の愛から起こされる救いの業であり、ひとを命に招きます。神は、わたしたちが切実に必要としているものを知り、それをやさしく満たして、新しい命に生きるものとして立ち上がらせてくださるのです。

どうかみ恵みによって私たちの信仰の目が開かれ、すべての愛のみ業のうちに主を見いだすことができますように。

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