U. 思いやり

8. April, 2016 • 0 Comments

※ジョアン・チッティスター著“Illuminated Life – Monastic Wisdom for Seekers of Light”(Orbis Books, 2000)の翻訳。長坂聖マリヤ教会週報2016/4/10,17掲載。

師父ポイメンに弟子たちが会いに来て尋ねた。「教えてください。聖務時祷の間に居眠りをしている兄弟がいたら、起きているようにつねるべきでしょうか。」老師は彼らに答えた。「わしは兄弟が眠っているのを見たら、膝枕をして休ませるよ。」

思いやり(Understanding) – 共苦(Compassion) – は、修道生活の基礎です。それを抜きにしては、互いに知らぬ者たちから共同体を育てる希望はありません。聖ベネディクトの戒律は、この理解に満ちています。修道士は適当でない時間に会計担当者を煩わせてはなりません。他の人は自分の要求を満たすためにいるのではないのです。門番は、日中であろうと夜間であろうと、どんな時間でも、訪ねて来た人を親切に迎えなければなりません。必要のある人がいたら、私たちはできるかぎりのことをしてあげなければなりません。決まり以上のものが必要な修道士がいれば、質問されることなしにそれは与えられます。常に人が決まり事よりも大切なのです。給仕担当者は他の人が食べる前に食事をします。必要以上に仕事がつらくならないようにするためです。他の人は自分の満足のために存在するのではありません。自分が誓約したように生活することのできない修道士は、ただ懲戒されるのではなく、助言を与えられます。許されない過ちはありません。すべて生活は段階の連続なのです。言い換えるならば、聖ベネディクトの戒律は、人間の条件の限界を知り、それを尊ぶ戒律なのです。

人生は完全なものではありません。人間は完全になりうるものではありません。他のすべての人間と共に人生を負う力である思いやりだけが、共苦だけが、それによってどんな重荷を負うことになろうとも、わたしたちを完全にします。この理解が宗教の名において失われるならば、善の名において忘れられるならば、宗教は道を外れており、徳はその意味を失っています。神は思いやりに満ち、必要なものを与えてくださります。他者を思いやることができなければ、誰も、真に観想的になることはできず、真に神なる命にふれることはできず、真に神の霊で満たされることはできません。

観想は、それを通して神の大きさに触れるようになる鏡です。しかし同時にまた、それを通して自らがどれだけ小さいのか、どこまで大きくなれるのかを識別するフィルターでもあります。観想者はただ神の中にのみ完成を求めます。観想者は破れを思いやります。そして何よりも、観想者は、神は個人的な必要においてわたしという空虚を満たしてくださるのだということを理解します。

観想者は、わたしたちが欠いているのは神の豊かさに対して明確な要求を持っていないことであると知っています。自分が欠いているものを知らないことは、自分自身の神になってしまうことです。まったく、げんなりさせられる代替品です。観想、すなわち、あらゆるところ、あらゆる人の中におられる神の臨在への意識で満たす神への専心が本物であるとき、わたしたちは愛に飲み込まれます。気に懸からない人はいなくなり、自分の下にいる人はいなくなります。神は、そこにおられるとは最も思われないところにおられ、わたしたちがそれを悟ることを待っておられます。

そして、こうしたことすべてが理解されると、事は完全に明白になります。目の前にいる人以上に意味のある決まり事などありません。あまりに重大であるために許されないような罪などありません。考慮に入れられてはならないような人間の必要などありません。見過ごしてもよいような人間の苦しみなどありません。非難できるような人間の闘いなどありません。負わなくてもよいような人間の痛みなどありません。

神は思いやられます。それゆえ、真の観想者は思いやるのです。

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