T. 時間 (Time)

19. March, 2016 • 0 Comments

※ジョアン・チッティスター著“Illuminated Life – Monastic Wisdom for Seekers of Light”(Orbis Books, 2000)の翻訳。長坂聖マリヤ教会週報2016/3/20,4/3掲載。

theodore-trichinas-icon-2ひとりの兄弟が師父テオドロスに会いに来て、自分がまだやったことがないことについて話し始め、質問をした。老師は彼に言った。「あなたは、自分が乗る舟を見つけ、荷物を載せ、出航してもいないのに、もう目指す町に到着してしまっているようだ。まず自分のすべき仕事をしなさい。そうすれば、今話していることに至るだろう。」

現代社会が取り憑かれている関心のひとつは速さです。どんなものでも、それまであったものより速いものが作られます。航空機は音速よりも速く飛ばされます。誰がそれに関心を持つというのでしょう。自動車は、静止状態から数秒で時速60マイルまで加速する性能を売りにして販売されます。誰がそれを必要としているというのでしょう。数ミリ秒の速度向上のために、何百ドルも費用をかけてコンピューターの最新版プログラムがダウンロードされます。今は何でも価値あるものであるためには、より速く動き、より速く起動し、誰も計算もできないような速さで動作するものでなければならないのです。即席のオートミール、自動券売機、より短期間で終わる教育プログラム、週末に済ませる大学教育、30秒以下で伝えられる国際ニュースが求められます。わたしたちは「忙しい人間」なのです。結果ばかりが求められ、もはや過程には意味が認められていません。好んで話題にはされますが。

しかし、砂漠の修道士たちは知っていたことですが、霊的生活はギアをトップに入れてハイスピードで営むようなことではありません。霊的生活 – 観想 – とは、魂の仕組みをゆっくり時間をかけて分解し、さらにゆっくり時間をかけて組み立てる過程です。それまで全く見ていなかったものを見るようになることです。あらゆるところにおられる神、ことにわたしたちの中におられる神を見るようになることです。

なんとも皮肉なことに、わたしたちの世代は、急ぐあまりに時間の価値が分からなくなってしまいました。速さによって時間を節約することはできませんでした。ただ、かつてやっていた倍の量の仕事を詰め込めるようになっただけでした。速く行けば行くほど、わたしたちは自分を置き去りにしています。もはや日が沈むのを見るために立ち止まることはありません。その代わりに写真を撮ります。そして、その写真を見るための時間を取ることもないのです。

でも急ぐことができないようなこともあるのです。悼みの過程は速めることはできません。成長は速めることはできません。痛みの影響を速めることはできません。愛の到来を速めることはできません。生涯をかけて行うべき神の探求を手早く行って失敗し、それを不毛だと決めつけるようなことがあってはなりません。これらはいずれも段階的にやってくるものです。これらはいずれも魂の働きを要するものです。

観想者は知っています。時間は、完成のために与えられているのではなく、発見のために与えられているのだということを。わたしたちの内部と周囲とにおられる神、そこからすべての命が流れ出すところの神に対して、ついに自分をこじ開けることができるようになる前に、人生には発見されるべきことがたくさんあります。

観想者は悟ります。人生の中で学ぶことは、人生を変えるものであることを。

わたしたちは学ばねばなりません。どんな制度も神ではないことを。どんな神の象徴も神ではなく、絶対化できないことを。

わたしたちは学ばねばなりません。わたしたちは神ではないことを。世界はわたしたちを楽しませるために造られたのではなく、わたしたちの成長のために造られたのだということを。成長しなければならないのです。痛みを伴うとしても。

わたしたちは学ばねばなりません。どんな制度の中に収まることもない神、わたしたちが呼吸する息そのものであられる神は、わたしたちの中で、わたしたちがそのことに気づくのを待っておられるのだということを。あれこれの中に神を探すのを止めねばなりません。神はここにおられるのです。

最後に次のことを学ばねばなりません。時間は、具現化を贈るものであって、すべての夢を終わらせるものではないことを。何が起こっているのであれ、どんな段階に自分がいるのであれ、それは神の事柄です。それについて経験されているほどに、いま、神について経験されているのです。

観想者になるためには、時間を、消耗品としてではなく、ここで、いま、神を示すサクラメントとして見始めなければならないのです。

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