死にあずかるという救い

15. March, 2016 • 0 Comments

大斎節第5主日(C年)説教(甲府聖オーガスチン教会にて)
聖書日課:イザヤ43:16-21, フィリピの信徒への手紙3:8-14, ルカ20:9-19

「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵芥と見做しています。」

パウロにとってイエス・キリストを知ることにそれほどの素晴らしさを感じる前提となっていたことは何でしょうか。

それは自分の罪深さの認識でした。自分の中に罪が住んでいることを知ることでした。自分が望んでいることを行わせず、憎んでいることを行わせる悪の力が自分の中で働いていることを知ることでした。人のため、神のために行動しているのだと思っている時でも、実は自分勝手で自己中心的な行動をしていることがあること。自分は自分のしていることが必ずしも分かっていないこと。そのような罪の拭いがたさを知ることがなければ、「キリストの死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したい」などと思うことはないでしょう。人間の根本的なところに罪への傾きがあること、そこで悪の力が働いていることを知ればこそ、わたしたちは、主イエス・キリストのご復活に他のすべてがかすむほどの素晴らしさと喜びを感じるのです。

問題は、わたしたちが、そのような根本的な罪への傾き、罪による支配を、なかなか認められないことです。

自分は、親を敬わなかったり、人を殺したり、姦淫を犯したり、盗んだり、偽りの証言をしたり、人のものをむさぼったりしているわけではない、聖人と呼ばれるほどに清く正しい生活をしているとは言えないまでも、自分がそれほど罪深い人間だとは思われない…。そんなぼんやりした罪認識の内に、イエスさまに「ヘロデがあなたを殺そうとしています」と伝えた人々、「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜました」と伝えた人々のように、罪をどこか他人事のように考えてしまいがちなのです。

主の十字架が赦しを与える罪とは、法律を破る、秩序を乱すという次元の罪ではないのです。そうした諸々の罪と無関係ではありませんが、イエスさまが贖ってくださった罪とは、すべての人間の中にあって、人間の本当の姿を覆い隠しているもののことです。

罪を悔い改めるとは、何か戒めを破ったことを反省してそれを守るようになる、という次元のことではありません。放蕩息子が「我に返って」、「もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と叫んだように、自分が、この世に神の子として生を受け、身分と財産を与えられていたにも関わらず、それを忘れ、それにふさわしくない生き方をしていたことを悟り、神の憐れみを求めて嘆き叫ぶことなのです。

そして、洗礼を受けるとは、罪を告白した放蕩息子が、父に服を着せられ、手に指輪をはめてもらい、足に履き物をはかせてもらって、改めて、父の子であると宣言を受けて祝福されたように、「お前はわたしの愛する子」と宣言してくださる神の声を聞くことなのです。「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。…わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。…わたしはあなたたちをわたしのために造った。あなたたちはわたしの栄誉を語らねばならない」という神の声を聞くことなのです。この声に励まされ、変えられることなのです。

この洗礼は、罪にまみれた古い考え方や行動の仕方を死に至らせるものですから、この世での旅路を終えるまで続く過程です。だからパウロは言います。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」と。

大斎節第3から第5主日の福音書は、自分が罪に支配されていることを認められない人の姿を、印象的に描き出しています。

先々週の日課では、自分の罪深さを認めない人が、実をならせない<いちじくの木>に喩えられていました。枝を張り、葉を茂らせ、我が世を謳歌しているこの<いちじくの木>は、主人から慈しみに満ちた世話を受けているのに、それに応えません。自分の根本にはもう斧が置かれているのに、それに気づきません。「どうか今年もこのままにしておいてください」と自分のためにとりなし、祈ってくれている人の故に猶予を与えられているのに、それを知りません。実をたわわに実らせた葡萄の木々の間にあって、果樹として植えられた本分を忘れて実をならせず、省みるところがありません。自分が罪人であることを認めない人とは、そんな<いちじくの木>のように、自分が何者であるかを忘れ、自らを他者に与えるものにならない人だ、というのです。

先週の日課では、自分の罪深さを認めない人が、放蕩に身を崩して家に帰ってきた人の兄に喩えられていました。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか…」と言って、弟の帰宅を祝う祝宴に沸く父の家に入ることを拒み、被害者意識に震えながら自分の正しさの主張の内に冷たく立ち尽くすこの兄の姿もまた印象的です。彼も、この世に父の子として生を受け、身分と財産を与えられているのに、感謝を忘れていたことにおいて放蕩者の弟と変わりませんでした。天に対して、父に対して、その意味で罪を犯していることを彼は悟ることができず、祝福に入ることができなかったのでした。

今日の日課では、イザヤ書第5章にある「ぶどう畑の歌」をひねって語られたたとえ話において、次第に罪の泥沼の深みにはまっていく農夫に喩えられています。

イザヤ書の「ぶどう畑の歌」は、主人に丹精込めて育てられたのに酸っぱい実しかつけなかった葡萄の木に、イスラエルの民を喩えた歌です。マルコやマタイが伝える並行箇所で読むと、「ぶどう畑の歌」の初めの数節を忠実になぞることで、イエスさまが「ぶどう畑の歌」を思い起こさせるように語られたことが分かります。ところが、それをイエスさまは、ぶどう畑を作った主人がそれを農夫に貸したところ、農夫が主人に小作料を払うのを渋り、しまいにはぶどう畑の乗っ取りを図るに至った話に変えて語られます。

プトレマイオス朝の支配下にあった紀元前3世紀頃には、ユダヤには嗣業の地を耕して生きる自作農がいなくなって、エルサレムに住む裕福な祭司や商人が地主として所有する土地で小作農として生きる人がほとんどになっていました。この「ぶどう園と農夫」のたとえで語られているような地主に対する農夫の反乱は、当時実際にあったと言われます。民の横でイエスさまの話をきいていた、祭司長や律法学者たちは、自分たちの経験から自分を葡萄園の主人に重ね、頷きながらこのたとえ話を聞いたことでしょう。

それが自分たちへのあてつけであると悟ったのは、イエスさまが「家を建てる者の捨てた石。これが隅の親石となった」という詩編(118:24)の言葉を引用してイスラエルの指導者を問題にしたのだということを明らかにし、さらに「その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」と述べてイザヤ書(8;14)やダニエル書(2:34-35,44-45)にある言葉を想起させ、お前たちは神に躓くのだ、お前たちの支配は神によって滅ぼされるのだ、と警告なさった後のことでした。

自分を不正義を被った主人の立場に置いて他人事のようにたとえ話を聞いていた彼らは、突然、この悪い農夫たちとはお前たちのことだ、罪人はお前だ、と突きつけられたのでした。彼らは、イエスさまに手を下そうとしました。

他方、たとえ話を聞いた民の「そんなことがあってはなりません」という強い言葉からは、あなたたちの運命は今や重大な危機にさらされている、というメッセージを彼らが確かに受けとめたことが伝わってきます。本日の福音書の直前箇所に書かれているように、民は洗礼者ヨハネを神に遣わされた預言者と信じ、その使信を受け止め、自分たちが神の民としての本来の姿を失って罪の中にあることを嘆いていました。その彼らの心にイエスさまのメッセージが強く響いたのでしょう。

祭司長や律法学者たちは、そんな民の矛先が自分たちに向けられることを恐れて、イエスさまに手を出せませんでした。

しかし、このたとえ話は、指導者たちだけでなく、民全体に対して為された受難予告でした。それは、指導者たちを彼ら自身の姿と向き合わせただけでなく、民を自らの罪と向き合わせ、態度決定を問いかけていたのです。イザヤ書の「ぶどう畑の歌」をなぞって語られた話だったわけですから。主人の「愛する息子」が葡萄園の外に放り出されて殺される、すなわち、神の愛する息子が神の民の間から排斥されて殺される、という話だったのですから。そこで訪れる危機を前にして、あなたはどうするのだ、と問われていたのです。

人々は、十字架と復活の出来事の後で、こうしてあらかじめ警告を受け、問いかけられていたにもかかわらず、「悪い農夫たち」の企みに加わってしまったことを悟り、自分自身の罪と向き合わさせられたのでした。そうして自分の中に住む罪と向き合って悔い改めた人々が、「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」と告白する群れになっていったのでした。

復活の希望に生かされ、日々、イエスさまの苦しみと死にあずかりながら、永遠の命への道を歩んでまいりましょう。

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