S. 静けさ(Silence)

5. March, 2016 • 0 Comments

※ジョアン・チッティスター著“Illuminated Life – Monastic Wisdom for Seekers of Light”(Orbis Books, 2000)の翻訳。長坂聖マリヤ教会週報2016/3/6, 13掲載。

長老のひとりが言った。「波立つ水面に顔を映して見ることはできないが、魂も同じことだ。雑念を除かなければ、魂に神を観想して祈ることはできない。」

静けさは、雑音でできている社会にあっては失われた技芸です。朝はラジオで目を覚まされ、夜は眠りに就いたずっと後にタイマーでテレビが消されます。車でもエレベーターでも事務所の待合室でも音楽が流れています。家には居間でも台所でも二階の風呂場までも音が追いかけてくるような音響装置があります。オフィスビルや街角には公共のアナウンス用にスピーカーが設置され、大音量でがなり立てています。体操するときにはイヤフォンを耳につけ、携帯音楽プレーヤーを腰につけます。ビーチに寝ころぶときには、CDプレーヤーに耳をケーブルで結びます。わたしたちは騒々しさで身を包んでいます。騒々しさに浸かっています。この社会では、音楽、ニュース、テレビドラマを装った騒音が、魂の障壁になっています。わたしたちは騒音によって自分自身に耳を傾けることから保護されているのです。

観想者が知っていて、現代社会が忘れているように思われることは、霊的進歩の実質をなすものは書籍の中にはない、ということです。それは、自己が主題としている事柄の中にあるのです。それは、わたしたちが考えることの中に、わたしたちがいつも発信するメッセージの中に、魂の日々の内なる戦いの中にあるのです。しかし、静まって耳を傾けなければ、たとえ自分の中のことであっても、いやむしろ自分の中のことは特に、実際に何が起きているのかを知ることはできません。

静けさはわたしたちを脅えさせます。静けさはわたしたちを自分自身と向き合わせるからです。静けさは、生活の中でとても危険の多い時間です。静けさは、わたしたちが何に取り憑かれているかを教えます。静けさは、自分の中で未解決なことを教えます。静けさによって、わたしたちは自分の裏面と向き合わされます。逃れることのできない自分の弱さ、どれだけ表面を取り繕っても隠すことができないところ、どれだけお金を得ても地位を得ても権力を得ても癒すことができないところと向き合わされます。静けさは、わたしたちを自分ひとりにするのです。

言い換えれば、静けさは、人生の最も偉大な教師です。静けさは、わたしたちがまだ何になっていないか、それになるためにどれだけ欠けているかを示します。詩人マーク・ストランドは、「どこにいようとも、わたしはそこに欠けているものである」と書きました。

静けさとは神の声を聴く直前の場所であると、観想者は知っています。静けさは、魂の真中にあって神と私が出会う空虚な場所です。静けさは、魂がそこを通って旅しなければならない洞穴です。そこでわたしたちが気づくのを待っておられる神がわたしたちを満たすことができるように、その中で人生の不協和音を取り除かなければなりません。

静けさの中で過ごすことのない一日は、自己が存在することのない一日です。騒々しい一日に押しつぶされ、引きずられていたら、神の慰めを受けることはできません。それでは、自分を取り巻く世界に打ちのめされ、自分の心の中で騒音がやかましく鳴り響くままになってしまいます。観想者になるためには、自分を取り巻く世界の不協和音の音量を抑え、自分の内に入り、嵐ではなくささやき声であられる神を待たなければなりません。静けさは<静けさ>であられる神をわたしたちに与えてくれます。また同じぐらいに重要なことですが、静けさはわたしたちに人に何を話すべきかを教えてくれます。

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