R. レクリエーション (Re-creation)

26. February, 2016 • 0 Comments

※ジョアン・チッティスター著“Illuminated Life – Monastic Wisdom for Seekers of Light”(Orbis Books, 2000)の翻訳。長坂聖マリヤ教会週報2016/2/21,28掲載。

ある時、二人の兄弟が年老いた修道士を訪ねに出かけた。毎日食事を取ることは老師の習慣ではなかった。しかし、二人が来るのを見ると、老師は喜んで迎えて言った。「断食は断食で酬いがあるものだが、愛ゆえに食事をとるならば二つの戒律を満たすことになる。自分の意志を放棄し、また他者の元気を回復させることになるからだ。」

多くの人は認めたがりませんが、「断食すること」にも酬いがあるものです。規律に従って禁欲的に生活を送ること、仕事、義務、責任、務め、生産性のために脇目も振らずに集中することには、それで得られるものもあるのです。傍目に見てどれほど大変そうであっても、それを為す熱心さの内に実は何かその人自身を満足させているものがあるのです。昔なじみの親戚を訪ねたり、子どもたちと遊んだり、個人的な手紙を書いたり、犬の散歩に出かけたり、釣りに行ったり、浜辺でピクニックをしたりするためにスパルタ式の日課を放棄するだなんて、勤勉で道徳的な人間にとっては考えるだに身のすくむ話です。わたしたちは、もっと大事なことで精一杯な真面目人間で、人間的であるにはあまりに「忙しすぎる」のです。

それで、わたしたちは、感性をすり減らしつつ、忙しい忙しいと言いながら人生を過ごしていきます。新たな美の瞬間、新たな質の経験、新たな分野の思索を自由に生きることなく、変わりばえのないことに没頭して毎日を送ります。ただひたすら同じことを繰り返し続けます。何よりも悪いことに、わたしたちはそのように生きている自分を霊的に高潔であると考えてしまいます。徳が魂の目隠しになるのです。しかし、それでは、あらゆるところにおられる神を見ることができません。前に見たことのある場所しか見ようとしないからです。

レクリエーション、聖なる余暇は、観想者の魂の支柱であり、安息日の神学がその要石です。聖書は言います。「第七の日に、神は安息なさった」と。この一つのイメージ、この一つの節によって、省察すること、創造的である霊のレクリエーション(再生)、超越すること、自分は自分が為すこと以上の存在であることへの権利が是認されています。仕事をすることが元気を回復することよりももっと神聖であり、神よりも価値があり、人類に益になると考えて、休むこと、遊ぶこと、自由になることを拒むならば、観想の根そのものを断つことになります。

人生(いのち)は仕事以上のことを目的とするものです。もし目的を誤るならば、仕事は無益であり、破壊的ですらあります。真実を見きわめようとすることなく、神がご覧になって「極めてよかった」と言われたすべてのものをよく理解しようとせずして、どうして仕事を本来あるべき姿に保つことができるでしょうか。レクリエーションは魂の伸縮運動です。どこにも行き着くことのないレースをやめ、生産性という回転木馬から降りてそれが同じところを回っているだけであることに気づくならば、少しでも人間性が取り戻されます。

レクリエーションの目的は、魂の安息日をつくりだすことです。わたしたちには過去に為したことを評価するための時間が必要です。神がそうなさったように、自分の人生を費やして行ったことが誰かにとって本当に「よかった」のかと自問しなければなりません。自分にとってどうなのか、次世代の人々にとってどうなのか、今自分が生きているこの世界にとってどうなのかと。

日々為している仕事が周りにいる人々の人生にどのような影響を与えているのかを評価しなければなりません。自分の人生をもって為していることやそのためにとっている方法が、本当に自分の人生あるいは関わりのある人々の人生を費やす価値のあることなのかどうかを自問しなければなりません。安息日だけが、レクリエーションだけが、一歩退いて考える機会を与えてくれます。自分を開き、新しくされる機会を与えてくれます。目をあげ、心を開いて人生を歩む機会を与えてくれます。人間的な経験の人間的な部分を拡げる機会を与えてくれます。

人生は陰鬱であるべきものではありません。人生は忍耐力テストではありません。人生は人生です。ただし、もし自分がそのように生きるならば、です。人生とは、喜びの体験に乗り出すことです。どうして確信をもってそう言えるのでしょう。楽しむべきことが溢れているからです。入江の奥での釣り、山の頂からの眺望、裏山での野いちご摘み、近所でやっているストリートダンス、よい本、教会バザー、町での文化的催し、ふだんは離れて暮らしている家族の集まり…。

人生を楽しむことを拒否する宗教的伝統は、命を拒絶しています。命を拒絶する宗教は、宗教ではありません。そのような宗教は、現在における聖なるものを超越せる聖なるものに結びつけることができません。観想者になるためには、人生(いのち)を生きなければなりません。人生(いのち)すべてを通して神を知ることができるように。

Leave a comment