荒れ野に生きる

15. February, 2016 • 0 Comments

大斎節第1主日(C年)説教

◆ 大斎節に入りました。大斎節を失うものは1年を失う、と言われます。これは経験に基づく言葉、信仰生活の実感から言われる教えであるのと同時に、信仰理解そのものから来る言葉でもあると思います。

大斎節のこころは、灰の水曜日の礼拝で、額に灰の十字架を書かれる時に唱えられる「あなたは塵であるから、塵に帰りなさい。罪を離れて、キリストに忠誠を尽くしなさい」という言葉によく言い表されています。

わたしたちは神によって塵からつくられたものであって、塵に帰るものである。わたしたちはただ、神の息によって命あるものとして生きているのであって、神の息が自分から出ていけば死ぬものである。この自分と神とについての根本認識が土台としてあってこそ、その上に、神の恵みを感謝し、神の憐れみに頼り、神からの救いを信じる、信仰生活が成り立ちます。

大斎節には、この信仰生活の原点である根本認識に立ち帰りたいのです。その認識を与えられる現場、自分が塵であり、塵に帰らなければならない現実に向き合わされる場所が荒れ野です。

◆ 荒れ野は、聖書でどのような場所として書かれているでしょうか。

荒れ野は、旧約聖書では、アダムとエバが追放された場所、「エジプト」と「約束の地」の間にある地、捕囚の民が生きる流謫の地です。

荒れ野は、追放と不毛、死を象徴する場所であり、そしてまた、神の救いが現れ、回心の起こる場所です。命なる神から最も遠く、断絶されていると感じる場所であるのと同時に、命なる神が最も近く経験され、親密な交わりが実現される場所、それ故にまた、その交わりを絶とうとして悪魔が誘惑してくる場所です。信仰の真実さ、神の存在と約束の確実さが再び見いだされるための「試みの場」「癒しの場」「備えの場」です。

19世紀末に、ヨーロッパでユダヤ民族主義が起こって、パレスチナの地にユダヤ人の安全を確保できる自分たち自身の国家を作ろうというシオニズム運動が起こった時、伝統的ユダヤ教の信仰に立つラビは次のように言って反対しました。

「神は我々を、我々の罪ゆえに追放なさった。そして、その流謫の境遇はユダヤの民にとっての病院なのである。我々が病から完全に癒える前に、我らの土地を掌握するのは好ましくない。神は我々を見守り、保護してくださる。神は我々に、完全な処方と調合を経た『薬』としての試練を課されたのだ。いったん我々が罪から完全に癒されさえすれば、神は、瞬時も躊躇わずに、神御自身の手で我々を解放してくださるだろう。であるならば、なぜ、死の危険 – 我々全員の頭上に漂う世界的な危険 – を前にして、病院から出ることを急ぐ必要があるのか?我々が解放の内に求めているのは、完全な治癒である。よって、我々は、いまだ病んだ体のままで王宮に帰ろうとしてはならないのだ。」

ここには、新約聖書と通じる、救いの終末的な理解があります。

新約聖書では、旧約聖書に証しされている神の民の経験を通して深められた「荒れ野」の理解が、強く象徴的に打ち出されています。それは、洗礼者ヨハネが洗礼を授けた場所、イエスさまが悪魔からの誘惑を受けた場所、イエスさまがしばしば祈りのために退かれた場所です。荒れ野は、イエスさまが命を絶たれるままに捨て置かれた十字架上の極限的状況を象徴する場所であり、終末的救いの始まる場所、終末的誘惑を受ける場所、そしてサタンからの終末的な退避所です。

◆ 荒れ野は、目に見える生命維持システムがない場所です。荒れ野には、人が造り出したものは何もありません。荒れ野は、自分が頼ってきたもの、目当てにしてきたもの、自分の気を紛らわしていたものがない場所です。荒れ野には、自分たちの上に絶対的な力を誇って君臨しているように思っていたものも、永遠の輝きを放っているように見えたものもなければ、自分に誇りを与えていたもの、自分たちの人生に意味を与えてくれるように思っていたものもなく、自分のいのちの維持、養いにどうしても必要だと思っていたものもありません。荒れ野は、それらこの世のすべてが結局は相対的な価値しか持たないことを知る場所です。

エジプトを出て葦の海を渡った者、悔い改めの洗礼を受けた者の目の前に待っているのは、この荒れ野です。わたしたちが、信仰者として生涯をかけて歩む場所、神の民として共に旅する場所、それは見覚えがある場所ではなく、自分に安全と糧を与えてくれるシステムが存在する場所ではなく、ただ神の約束を信じて、神の導きに頼って、神から与えられるものに養われる以外にない場所です。

わたしたちは、そこでいのちをむき出しにされ、ありのままのいのちの現実に対して心を開かれ、自分の土台を失い、道を見失ったような不安と恐れに襲われたり、それを逃れようとするあらゆる誘惑を経験したりすることにもなりますが、しかしそこではまた、日常意識の中で見えなくなっていた神の恵みに気づかされ、驚嘆すべき神のみ業が直接的に経験されます。

そのような荒れ野に何も身を守るものもなく放り出されていのちを長らえることは不可能ですが、アダムとエバに皮の衣を作って着せられたように、神はわたしたちにイエス・キリストという衣を着せてくださり、エジプトを出た民を昼も夜も共にあって導かれたように、イエス・キリストを満たした霊でわたしたちを導いてくださるのです。

この事実にあらためて心を強くし、この荒れ野を、共に主に養われ、主に導かれて歩んでまいりましょう。

Leave a comment