Q. 探求(Quest)

9. February, 2016 • 0 Comments

※ジョアン・チッティスター著“Illuminated Life – Monastic Wisdom for Seekers of Light”(Orbis Books, 2000)の翻訳。長坂聖マリヤ教会週報2016/2/7,14掲載。

師父ポイメンが師父ヨセフに尋ねた。「どうすれば修道士になれるのか教えてください。」師父ヨセフは答えた。「今後ここで安息を見いだしたいのであれば、どんな時にも『わたしは何者か』と自問しなさい。」

何かを探し求めていないような人がこの世のどこにいるでしょうか。誰しも、人から認められること、お金、家庭、出世、成功、安全、幸せなど、何かを探し求めているのです。人間は、その本性において、霊的な採集狩猟民です。聖杯探求者です。人間は常に、結晶化した時間や永遠なる星団に成型された月桂冠やトロフィーを求めています。誰もが何かを探求する旅をしています。識別を与えてくれる問いは二つです。わたしは何を探し求めているのか?その探求の結果として自分は何者であるのか?

壁に映った影を探求して、幻滅の内に終わる人もいます。石像に彫刻される業績を探求して、自分にとって記念碑となるべきものが砕け、満足なものにならず、不満の内に終わる人もいます。さらに多くの人は、必死になってあちらこちらを彷徨い、ついには探求自体のために心が疲れ、魂が燃え尽きるまで、あれこれを味見し、廃棄し、要求し、拒絶することを続けます。彼らは人生を生かじりして終わる人、皮相な事柄、うわべ上の事柄の鑑識家です。探求の結果として自分が何者であるのかは、熱心な放浪者であるということ以外、彼ら自身にも分かりません。

宗教、そして霊性に関しても、同様な好事家たちがいます。彼らは、師を変え、派を変え、あれこれに癒しを求め、霊的な自己顕示をしてみせたり、霊的な逃避に走ってみたりしますが、決して本当に過程を大切にすることはありません。ましてや旅の目的を省みることはありません。彼らは探求しますが、探求の後も持続するような心のための家を見つけることはありません。宗教、そして霊性は、源を見いだすために自分を探求に駆り立てているものの背後に導いてくれるものではなくて、現在感じている痛みを和らげたり、空虚を埋めたりするための鎮静剤になってしまいます。宗教を、神を見いだそうとしないことの言い訳にしてしまうのです。

実際、宗教を、自分の欲する権力を手に入れる手段として、自分の切望する注目を集める手段として、自分の必要とする癒しを得る手段として使う人は多いのです。わたしたちの多くがともすればそうしているのです。しかし、そのような人は世界を観想する者ではありません。

観想者は、生活を洞察への障害と考えて魂の芽が枯死してしまうまで味見を繰り返すような真似をしません。観想者は、自分に欠けているものを補うために自分の外に解決を見いだそうとして、教会を渡り歩いたり、師を変え続けるようなことはしません。観想者は、神が自己の旅路のどこで自分に会うために待っておられるのかを見いだすために、どこへも行く必要がありません。観想者は、ただ自分の置かれた場所に立ち、その状態で、「わたしは何者か」という問いに「わたしは内なる神を待つ者である」と答えます。わたしは、命の中心を探求する者なのです。わたしは、あらゆる体制の背後にある源に向かう者です。わたしは、自分の暗くなった魂から遠く、自分の落ち着きのない精神と異なり、自分の千々に乱れた心とは別なる、<光>を探求する者です。わたしは、神と自分の間にある隔たりが自分に他ならないことを知る者です。

観想生活を生きるためには、自分が何を求めているのか、なぜそれを求めているのかに注意する必要があります。たとえ善いことであっても、それを為すことが心で雑音になることもあります。それが正しいことだからではなく、それが結果として自分に何かをもたらすからです。地位を与えられたり、よい気分になれたり、安全を得ることになったり、自分自身の生活はほとんど犠牲にする必要がなかったするからです。

神は、これらすべてにまして、わたしたちをご自分のものにしようとし、わたしたちを満たしてくださります。わたしたちが探し求める聖杯は、神のみなのです。しかし、すべての純朴たる聖人たち、すべての堕落した高位聖職者たちを見れば分かるように、神について話すことは神を探し求めることと同じではありません。観想者になるためには、神を正しい場所で探し求めなければなりません。中心にある自己なる聖域の内に探し求めなければなりません。

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