P. 祈り (Prayer)

26. January, 2016 • 0 Comments

※ ジョアン・チッティスターの黙想書 “Illuminated Life – Monastic Wisdom for Seekers of Light”(Orbis Books, 2000)の翻訳。長坂聖マリヤ教会週報2016/1/24,31掲載。

師父ポイメンは言った。「その性質において、水は柔軟で、石は硬い。しかし、もし水を満たした瓶を吊るして、その下に石を置き、水が一滴ずつ落ちるようにするならば、石には穴が穿たれるであろう。同じように、神の言葉は優しく、我々の心は頑なである。だから、人は神の言葉を頻繁に聞くならば、その心は神への畏れに向けて開かれるであろう。」

伝統的な祈りの定義には、ひとつだけ間違いがあります。神を誤って表象しているのです。「祈りとは、わたしたちの思いと考えを神に奉ずることである」と古くから教えられて来ました。あたかも神が、自分の外に、遠くに威厳を持って座す裁判官であるかのように。しかし、科学がもたらした新しいものの見方、すなわち物質と霊とはひとつのものであって、ある時には粒子であり、ある時にはエネルギーであるようなものであるという見方は、神はいかめしく疑い深げにどこか雲の上にいるのではないことを示しています。神は、わたしたちに生命を吹き込んでいる<エネルギー>そのものです。神は赫々たる男性の人間ではありません。神は、わたしたちを導き、わたしたちを前に歩ませる<霊>です。神は<命>へと招く内なる声です。神はわたしたちの内にあって、個々にも、共にも、満ち溢れようとしている<現実>です。その宇宙的な神に向かって、人格的で、内にあって、わたしたちを燃え立たせる神に向かって、わたしたちは祈るのです。

祈りは、長い時間のかかる過程です。祈りによって、わたしたちはまず、自分がどれほど神の心から離れているかを知ります。言葉がよそよそしく感じられている時、その過程を退屈に感じたり、無意味に感じている時、自分の中におわします神のみ前に静かに座ることを時間の無駄であると思う時、祈りはまだ始まってもいません。しかし、ひとつの福音、ひとつの言葉、ひとつの沈黙の間に照らされる毎に、わたしたちは少しずつ自分が分かるようになっていきます。わたしたちをご自分のものにしようとされている神との間に置いている障害物が分かるようになっていきます。

観想者は、万物から満足を引き出そうとして祈りはしません。神は命です。人類の気まぐれに応じるために些細なものを満載した自動販売機ではありません。神は命の目的です。命の実現です。命の到来です。観想者が祈るのは、自分の劣った計画のために世界を再形成するためではなくて、存在するものに対して開かれるためです。

観想者は、神の怒りを鎮めるために祈ったり、神のエゴにへつらうために祈ったりはしません。観想者は、神のみ前に沈潜するために、神のみ前に生きることを学ぶために、内なる神の臨在と一体化するために祈るのです。観想者は、言葉が必要なくなって、神の臨在が言葉よりも手触りのあるものになり、知識よりも満足なものになるまで祈ります。祈り毎に硬い心が溶けていきます。飽和していた心が新たに生き生きとしてきます。照らしを受けて精神がまっさらになります。

観想者とは、自己と世界における神の臨在と働きについての深い省察、祈りによって、自分を自分という小さな王国の王座に即ける幻想、自律の幻想を少しずつ拭い去った人のことです。観想者は、自己を超え、またそのすべての思い込みを超えて、<命>そのものに向かいます。ひとつの祈り毎に、観想者は「自分の」心臓で神の心臓に鼓動を打たせます。

観想者は、探求者です。自己に沈潜し、空虚のトンネルをくぐって、命の中心にただ神のみを見いだし、それが<全て>であると判ずる人です。観想者は、世界を見て、あらゆる場所で、あらゆる人の中に、ただ神の臨在と働きを見る人です。どうして、そんなことが可能なのでしょうか。祈りが対話への鍵、そして究極的には<全て>なる<沈黙>への鍵であるからです。

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