O. 寛容さ(Openness)

4. January, 2016 • 0 Comments

※ ジョアン・チッティスターの黙想書 “Illuminated Life – Monastic Wisdom for Seekers of Light”(Orbis Books, 2000)の翻訳。長坂聖マリヤ教会週報2016/1/10, 17掲載。

週に一度しか食べず、七〇週間の断食をしたひとりの弟子について、次のような話が伝えられている。彼は聖書の中のある言葉について神に尋ねたが、神は答えなかった。ついに彼は呟いた。「どうしたことだ。こんなに努力をしてきたが、全然進歩がない。兄弟に会いに行き、尋ねることにしよう。」
庵を出てドアを閉め、歩き出したところ、神の天使が現れて言った。「あなたは七〇週間の断食をすることで、神に近づくことはなかった。しかし、兄弟に教えを乞いに行くほどに謙虚になったので、言葉の意味を明かすためにわたしが遣わされてきた。」そして、天使は老人が求めていた言葉の意味を説明して去って行った。

自分を取り巻く世界の知恵に対して神の名によって自分を閉ざすことは、人間が犯す過ちの中でも他に並ぶもののない霊的傲慢です。それは人生をある種の監獄にしてしまいます。聖なるものの名において考えが鎖に縛られ、幻を見ることが咎められる監獄に。それは自分を自分の神にしてしまいます。それは霊性に関するお粗末な弁解です。

宗教の罪は、他のあらゆる宗教を空しく、無知で、不完全で、祝福されていないものとすることです。それは、他者の人生、知恵、霊的幻を通しての自分への神の呼びかけを無視することです。多くの仕方で啓示される神の心を締め出すことは、重大なる結果をもたらします。他者に対して自分の心を閉ざすならば、神に対して自分の心を閉ざすことになるのです。これは霊的にとても重要な事柄です。霊的な召しに深く関わる事柄です。神の臨在に対して開かれていること、他者の内にある神の言葉に対して開かれていることは、観想に絶対不可欠なことです。

心を開くことを学ぶためには、まず自分の生活を開かなければなりません。有色人を夕食に招いたことのない白人の家は、成長する機会を逃した家です。白人を信頼したことのない有色人は、人類の人間性を承認する機会を逃しています。女性を上司や同僚として働いたことのない男性は、世界の半分を通して与えられている啓示を自ら失っています。炊き出しでスープを配ったり、キッチンで料理人と一緒に昼食をとったり、リサイクルショップの店員をしたり、貧民街での活動に時間を費やしたことがなく、安楽に生活している観想者は、絶縁された泡の中で生きているようなものです。彼らの知っている世界が彼らの求める答えを与えることはありえません。人生について子どもに質問をし、その答えに耳を傾けたことのない大人は、人生が分からないまま、本当に学ぶことがないままで人生を送るしかありません。「門に訪なう人があれば『ベネディチテ』と唱えなさい」とベネディクトの戒律は指示します。世界についての覚知を増してくれる人が来たこと、己の小さな地平を超えて異なる仕方で考え、存在し、生きることを教えてくれる人が来たことを「神に感謝します」と唱えるようにと教えているのです。

寛容さは扉です。知恵はそこを通って旅をし、観想はそこから始まるのです。寛容さは山の頂です。わたしたちはそこに立って、世界が自分よりもずっと大きく、ずっと広いこと、自分の真実とは異なる真実があることを学ぶのです。自分の中の神の声は、神の唯一の声ではないのです。

寛容さは、社交上の上品さとは異なります。意見の異なる人に礼儀正しく耳を傾けることとは違います。それは政治的なことではなく、礼儀正しくすることでも、「愛想よく」することでもありません。それは、ただもてなすこととも違います。それは、新しい考え、新しい可能性に対して、自分の精神を惜しみなく明け渡すことです。寛容さという基本姿勢なしには観想は不可能です。神は、あらゆる声、あらゆる顔、あらゆる記憶、あらゆる闘いにおいて来られます。そのいずれであろうとも締め出すことは、自分が新しくなる可能性を閉ざすことです。

観想者になるためには、自分の生活を開け放たなければなりません。日々、自分に親しみのないひとつの経験、ひとりの人、ひとつの新しい考えを迎え入れ、自分に対して、自分について、それが何を語るのかを尋ねなければなりません。そのように生きるとき、神~<究極なる現実>~命を超えた<命>が、切り裂くようにして、深くて新しい仕方で、わたしたちのもとに来られるようになるのです。

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