包囲されて – シリア内戦と中東に於ける権力関係

25. August, 2012 • 1 Comment

トレバー・モスティン, 2012/8/11

(* “Under siege – Power relationships in the Middle East” on “THE TABLET – THE INTERNATIONAL CATHOLIC NEWS WEEKLY)

古代から続くシリアのクリスチャンのコミュニティが内戦の十字砲火に囚われている。多くの人が隣接国に避難している。彼らが後にした祖国における争いは、中東全体の複雑な現実に根底的な影響を与えるだろう。

アレッポのホテルでベッドの上に置かれたロザリオを見て、客室係の女性は喜びの表情を浮かべてにっこりした。彼女はギリシア正教会の信徒で、ルーツを聖パウロの時代にまで辿ることができる。イラクに於けるのと同様、シリアでキリスト教は繁栄してきた。特に1970年のハーフィズ・アル=アサドのバース党によるクーデター以後の(イスラム教)アラウィー派による支配のもとで、クリスチャンのコミュニティは大きく成長した。

しかし今やクリスチャンはシリアの総人口の10%を占めるに過ぎず、戦闘的なイスラム教グループの圧力の下でどんどん国外に流出している。16ヶ月前に体制の変化を求めて始まった平和的な抗議活動は、バシャール・アル=アサド大統領による暴力的な弾圧を受けて増大した聖戦主義者たちのグループに取って代わられた。

「イスラームが答えだ」というスローガンは、それを中東のあまりにも多くの人々が口にするようになり、クリスチャンの流出を深刻にしている。

シリアで多数を占める(イスラム教)スンニ派の人々が危険を顧みずにクリスチャンの店主たちを守ったエピソードの数々にも関わらず、クリスチャンの難民はレバノン北部に続々と逃げ込み、300万人のイラク難民は雪崩を打ってイラクに戻ろうとしている。ロシアがアサド大統領を見放すことを拒絶したのは、ひとつにはシリアのギリシア正教会のクリスチャン・コミュニティへの責任意識があるからなのだ。

(シリア西部の都市)ホムスのクリスチャンの90%が、アルカイダに所属すると称するグループによる迫害を受け、ヨルダンに逃げたという。7月17日に自由シリア軍によって殺害されたアサド大統領の側近4人の内の1人は、ギリシア正教会の信徒で国防相であったダウード・ラジハであった。教皇使節マリオ・ゼナーリ大司教は、紛争が「この国を、破壊と、言い表すこともできないような苦難と死に向かって引きずっている」と述べた。

反政府活動家の中には、シリアのクリスチャンを体制の協力者として非難する者もいる。しかし、相当数のクリスチャンが、2011年3月の時点ではまだ大衆の支持が厚かったアサド大統領に対する抗議運動として始まった反乱を支持してきた。

12年前にバシャール・アル=アサドが大統領になった時と状況がすっかり変わっている。独裁者であった彼の父が2000年に死去した時、多くのシリア人は内戦になるのではないかと恐れたが、ロンドンから戻ってきた眼科医、ロンドン生まれの聡明で可愛らしいシリア系女性と結婚した若きバシャールは、その父の多くの敵にオリーブの枝を差し出し、改革を志向する演説を行った。彼は権力継承者として育てられたわけではなく、父に寵愛されていた兄のバジルが自動車事故で死んで、その穴を埋めたのであった。不幸にも、バシャールの改革の取り組みは、夥しい数の兵士を抱える治安軍によって阻止された。治安軍は暴力的な行動をとり続けた。2005年のレバノンのラフィーク・ハリーリー大統領暗殺もシリア軍によるものと疑われている。

シリアの人権状況は、体制に敵対する者の拷問や殺害が続き、芳しくないままではあったが、町の雰囲気は、1982年のイスラム主義者たちの獄中での殺害やハマでの虐殺の記憶がまだ生々しかった1980年代よりは、ずっと自由なものに感じられていた。かつてのように後をつけられるようなことはなかったし、ダマスカスの愛すべき旧きバブトゥーマ地区をぶらぶら歩いていると、シャーベット・ドリンクや夕食やチェスに招かれるのが常だった。子どもたちが中庭から走り出してきて宿題を見せてくれたりした。安定を保証してくれると考えて中流層が体制を支持していることは明らかだった。支配するアラウィー派は、総人口の13%で、他の少数派、すなわちクリスチャン、アルメニア人、ドゥルーズ、クルド人を、脅威を与えることのない同盟者と見ていた。

だが、昨年、全てが変わり始めた。政権はアラブの春の台頭を許さず、その代償を払うこととなった。ダマスカスにはタフリル広場があってはならない、とされたのだ。それを許していれば、人々に意見を表明する場を与えることで、政権への圧力を和らげることができたかもしれない。しかし、アサド王朝と、政府と軍の上層部を占めるアラウィー派は、非常な危うさを感じたのだった。バシャールは、体制の殺し屋たち、シャッビーハ(アラビア語で「幽霊」の意)に代表される父の軍人たちに立ち向かう勇気がなかったということかもしれない。先週、反乱軍は、シャッビーハの殺し屋になった悪名高いベリ家の人々を処刑した。双方の死者は合わせて2万人に達している。

イラクのサダム、チュニジアのベン・アリ、エジプトのムバラクと同様、アサドは、彼が支配を続けるか、さもなくばシャリーア(イスラム法)を強要し、社会的自由を抑圧する聖戦主義のサラフィ運動が支配するかだと主張した。確かに反体制派には、強硬派のイスラム教徒が加わっていて、その中にはイギリスから帰国した者たちもいる。米国はまさにアフガニスタンで戦っている相手であるイスラム過激派を助けているのだと指摘している通信社特派員もいる。オバマ大統領は反体制派に資金援助するよう指示を出したが、大統領選が近いために米国は支援することに慎重な姿勢を保ったままだ。アルカイダの書記、アイマン・アル・ザワヒリは、シリアを戦闘的サラフィ主義のイスラムの保育器にする好機だと述べたという。反体制派は、時に政府軍と同じぐらいに残虐である。昨年4月、ジスル・アッ=シュグールで100人の政府軍兵士を虐殺したとされる。しかしながら、今のところは、戦闘的なイスラム主義者の分子は反体制派の中の限られた部分に留まっている。

サダム・フセインのイラクと同様に、アサドのシリアは、少数派が進路を決める国家であった。多数派のスンニ派から歴史的に迫害を受けてきたアラウィー派は、シーア派の中の秘教的な下位集団である(預言者モハメッドの甥で義理の息子であるアリの弟子たちと云われる(アラウィー=アリーに従う者たち))。スンニ派の指導者の中には、アラウィー派をシーア派のイスラム教徒と認めず、異端者あるいは異教徒として見て、シリアの他の少数集団との同盟を疑わしいものと考えている者たちもいる。

※ アラウィー派はキリスト教に近く、典礼ではパンとワインを用い、キリスト教の行事の多くを祝い、聖ジョージなどのキリスト教の聖人を崇める。他方で、ラマダンの断食や喜捨、巡礼を行わず、巡礼は偶像崇拝と見られる。アラウィー派は歴史的に度々迫害を受け、1317年に2万人、1516年に1万人が虐殺されたとされる。

※ アラウィー派は、第一次世界大戦での後、フランスによる委任統治下で親フランスの姿勢をとり、地位が上昇させ、アラウィー派の多い地域で自治権を与えられた。また、フランスが創設した軍に多くが入隊して約半分を占め、治安維持に協力した。独立後もアラウィー派の将校は軍に残り、アラウィー派は軍と社会主義と世俗主義を掲げるバース党の掌握に努め、スンニ派の間での争いにも助けられ、成功してきた。(参考:http://www.jccme.or.jp/japanese/11/pdf/2012-04/josei05.pdf)

分別あるイスラム教徒はスンニ派とシーア派の間の憎悪なるものは西欧がこしらえたものだと主張する。しかしながら、今やそれは自己成就預言となりつつある。例えば、両方の派はメッカへのハッジ(巡礼)を常に共に行ってきた。アヤトラ・ホメイニはイランがシーア派の国であることを強調せず、汎イスラムの世界観に訴えた。今は違う。今日、イランは、シリアや、レバノンのシーア派ヒズボラ、ガザのスンニ派のハマス運動に援助を与えている。対照的に、サウジアラビアとカタール、そしてトルコは、スンニ派の反体制グループを援助している。カタールが資金を出しているテレビ局アルジャジーラとサウジアラビアが資金を出しているテレビ局アルアラビヤは反体制グループの見解を伝えている。サウジアラビアは、自国に広まっている原理主義的なワッハーブ派の哲学に忠実であり、石油資源が豊かな自国のハサ地方にシーア派の貧しい少数者集団が住んでいることを厄介に思っている。1990年にサダム・フセインがクウェイトを保持することが許されたなら、彼はハサ地方をも吸収し、スンニ派の諸国が恐れる、石油資源が豊かな悪名高い「シーア派の弧」を作り出していたことだろう。

1990年の湾岸戦争の間、シリアは米国と英国を支持し、関係を発展させた。1967年の戦争でイスラエルに占領されたゴラン高地に関わる戦時体制にもかかわらず、シリアはもはやテロ国家とは見なされなかった。

だが、アサドが抗議運動に対して残忍な応答を見せたため、西欧諸国は彼の体制を支持していると見られるような姿勢は取れなくなった。シリアの隣人たちは、それぞれ反体制派を支持する理由を持っていた。トルコはEU加盟への飽くなき探求のために西欧諸国を喜ばせたい。レジェップ・タイイップ・エルドアンの穏健なイスラム主義のAK党(公正発展党)も、自らに似た穏健なイスラム主義の体制がシリアにできることを歓迎するだろう。エジプトでは、世界中のイスラム主義の鼓動する心臓となっているムスリム同胞団が、議会の多数派と穏健なイスラム主義の大統領モハメド・モルシを擁している。ムバラク後のエジプトもまた、自らに似た体制がシリアにできることを望んでいるのである。

アラウィー派の凋落は、レバノンの、人口の60%を占めるシーア派と、二度にわたってイスラエルの侵攻を成功裏に防ぎ止めて人気のあるヒズボラを、弱体化させるだろう。イスラエルがアサドの今や避けがたいものとなった失脚を歓迎するのは主にそれ故のことである。シリアは地域を消耗させていることでイスラエルに厳しい言葉を浴びせてきたが、実質的には何の行動も取らず、事実上は従順なる隣人であった。もしシリアにイスラム主義の体制が作られるならば、イスラエルに対してもっと強硬な態度を取るようになるだろう。

イランは最も多くを失うであろう。イランの核問題交渉責任者サイード・ジャリリは今週ベイルートでヒズボラの指導者ハッサン・ナスルッラーフと会い、来るべき劇的な変化にどう対応するかに備えようとしている。2007年にシリアの核施設と疑われる場所を爆撃したイスラエルは、イランの核施設を視野に入れたままである。シリアに訪れつつある大きな変化は、中東の構造を劇的に変化させるだろう。イランはそれによって困ることになるかもしれないが、それは米国、欧州、イスラエルも利さないであろう。国連とアラブ連盟からシリアに特使として派遣されていたコフィ・アナンが先週辞任したことは、もはや和解は可能でないことを示している。

1 Comment to “包囲されて – シリア内戦と中東に於ける権力関係”

  1. 元同僚のランジャン・ソロモンは、もう少し踏み込んでいます。
    http://​badaylalternatives.com/​syria-the-truth-the-lies-th​e-faultlines/

    ランジャンの論点は、シリア「内戦」は、対イラン戦争へ​の通路なのだ、ということです。そのことはトレバー・モスティンの記事も示していますが、モスティンの記事がイスラム世界に焦点を当てているのに対して、ランジャンの​議論は米国に主に焦点を当てています。

    他方、イランとロシア、そして中国は、中央アジアでの米​国の覇権拡大に対して共通の利害を持っているわけです。

    ランジャンが批判するとおり、あまりにもメディアは、アサド大統領を悪魔化することで紛争を単純化し、真の実態を見えないものにしていると思わされます。

    それにしても、取り返しのつかない形で、中東での破壊が進んでいることに焦燥感を禁じ得ません。

Leave a comment