N. ネイチャー(自然)

23. December, 2015 • 0 Comments

※ ジョアン・チッティスターの黙想書 “Illuminated Life – Monastic Wisdom for Seekers of Light”(Orbis Books, 2000)の翻訳。長坂聖マリヤ教会週報2015/12/27, 2016/1/3掲載。

ある哲学者が聖アントニオスに尋ねた。「師父よ、本から与えられる慰めもなしに、なぜ熱心でいられるのですか。」聖アントニオスは答えた。「哲学者よ、我が本は自然じゃ。神のみ言葉を読みたいときはいつでも、それはわしの目の前にあるのさ。」

「神はどこにおいでになりますか」と公教要理は問います。「神はどこにでもおいでになります」と公教要理は答えます。この答えはしばしば見過ごされています。しかし、神が本当に神であるならば、この答えは確かに真実なのです。神は天地万物の本質です。造られたものすべてに、創造者のエネルギー、命、像、本性が宿っているのです。

創造者を知るためには、ただ創造物を研究すればよいのです。命の源は<命>です。自明なることは、あまりに単純すぎて信じられないものです。すべての命は<命>の秘密を含んでいます。ノリッチのジュリアンは言いました。「このどんぐりの中に存在するものすべてがある」と。自然とは、すべて、究極者を映すものであり、命の神の憩われる場所であり、神の力が臨在するものです。

西方の宗教的伝統は、不幸なことに、神を人格神として示そうとするあまりに、うかつにも神を創造物から分け隔てられたものへと縮減してしまいました。神は人間にとって他なる者であるからわたしたちの中には神からのものがないとされてしまいました。わたしたちの観念する神とは、霊と物質とを創造し、宇宙に発出させ、両者を対抗させる状態にされた、天地万物の偉大なる<設計者>といったものです。この伝統は教えます。霊とは聖なるものの極みであって、他方、物質とは腐敗するもの、腐敗させるものであると。このような考えに基づき、自然は創造物の非嫡出子であるとされてしまいました。

物質と霊とを分ける世界にあっては、自然はただ人間の営みの舞台のようなものとして、衣食住の豊富なる供給庫として、人類がそれに対する「統治権」を与えられ、その中で物質が棄却されてはじめて神が勝ち取られるところの野生の世界として存在することになります。そんな奇怪な科学的かつ宗教的基礎の上で、奴隷制が、大地の簒奪が、「調査」のための動物の無益な殺傷が、熱帯雨林の略奪が、オゾン層に穴をあけることが、大洋を汚水槽に変えることが正当化されてきたのです。しかし、観想者は、自然に対する罪は命に対する罪であると知っています。

物質は悪であり、霊は善であって、二つは明確に別のものであるというこの考えは、著しく貧弱で嘆かわしい考え方です。それは神そのものをひとつのものに縮減する考え方、創造者を神なる命のエネルギーそのものから生じた創造物から切り離されたものに縮減する考え方です。それは限りない命の約束を無視しています。それはあらゆるところでわたしたちに呼びかけてこられる神のメッセージを無視しています。その考え方によっては、人類なくしても自然はすべて存在しうること、しかし人類は、その「統治権」にも関わらず、自然なくしては存在できないことが理解できません。それは命の一体性、神の<一体性>を無視しています。

観想者にはもっと分別があります。観想者は、あらゆるところに、そこからすべての命が由来するところの<一なるもの>を見ます。すべての命は神の顔を映していると知っています。自然を敵としながら生きることは、命を裏切ることです。その独裁者として自然の中を歩むことは、命の調和を歪ませることです。自然の調和、自然の美、自然が味わっている苦しみに神の声を見ることができないことは、心の目を閉ざし、魂の耳を塞いで生きることです。

観想者になるためには、自然の中をそっと歩むこと、命のリズムに同調すること、時間の循環から学ぶこと、天地万物の鼓動に耳を澄ませること、自然を愛すること、自然をまもること、自然の中に神の臨在と力を見いだすことが必要です。観想者になるためには、植物を育て、動物を愛し、雨の中を散歩し、生涯を通して反復する季節の中に神への意識を告白していかなければなりません。

Leave a comment