M. メタノイア – 悔い改めへの呼びかけ

22. December, 2015 • 0 Comments

※ ジョアン・チッティスターの黙想書 “Illuminated Life – Monastic Wisdom for Seekers of Light”(Orbis Books, 2000)の翻訳。長坂聖マリヤ教会週報2015/12/13,20掲載。

ある日、師父アルセニオスが年老いたエジプト人に助言を求めて質問していた。これを見た人が彼に言った。「師父アルセニオス、なぜ、ギリシアとローマの教養を豊かに持っておられるあなたのような方が、こんな農夫にご自分のお考えになっていることについて相談なさるのですか。」師父アルセニオスは答えた。「確かに、わしはローマとギリシアの教養を身につけたが、まだこの農夫のアルファベットすら学んでおらんのだ。」

生活の仕方を変えることはそんなに難しいことではありません。それはわたしたちがいつもやっていることです。わたしたちは容姿を変えるためにダイエットします。日常から逃れたい時にはスキーをしたり、釣りをしたり、ボウリングをしたり、ピノクル(トランプのゲーム)で遊んだりします。騒々しさから逃れようと田舎に移住します。長い年月を過ごす間に、幾度となく、仕事を変え、別の土地に移住し、家を替え、付き合いを変え、生活のスタイルを変えます。しかし、そういう変化は概して表面的なものに過ぎません。真の変化はずっと深いものです。それは命に対する見方を変えることです。それが悔い改めの実質をなすものです。

メタノイア、悔い改めは、修道士の世界観に深く根付いている古(いにしえ)からの概念です。初期の求道者は、霊的に乾いた都市生活を逃れて神の事柄に集中するために、砂漠に行きました。「世からの逃避」、自分を取り巻く世界を動かす汚れた価値観、体制からの離脱は、真の観想者のしるしになりました。物質主義に傾倒するあまりに息もできなくなっている世にあっては、悔い改めは必須でした。しかし、何への悔い改めでしょうか。砂漠に向かう悔い改め?まさか!目的とされたのは、心が清められること、探求に専心すること、命の問題に集中することでした。年月を経て、聖ベネディクトの戒律が作られ、修道士の共同体が形成されると、この問いへの答えはもっと明確になりました。悔い改めは地理的なものではないのです。「逃避」はある場所から別の場所へと行うものではないのです。観想者になるためには今いるところを去る必要はないのです。そうでなければ、重い皮膚病の人々、子どもたち、病いを負った人々、弟子たち、物見高い群衆に囲まれてガリラヤのほこりっぽい道を歩んだイエスは観想者ではなかったということになります。治療者であり、預言者であり、説教者であり、教師であったイエスは、神の心とひとつに結ばれていなかったということになります。とんでもない!疑いなく、観想は場所の問題ではありません。「世からの逃避」とはどこか特定の場所を去ることではありません。「世からの逃避」とは、それまでの姿勢の取り方、意識の持ち方を脱ぎ捨てて、新たにすることです。むしろ、自分がいるところに異なる精神状態でいなければならないのです。全世界の益となることを考えながら、事務所にいなければなりません。一般の人々のことを心にかけながら、取締役会に出なければなりません。管理することよりも発達に関わるような仕方で家にいなければなりません。聖ベネディクトが欲したのは、心の悔い改めでした。

しかし、何への悔い改めでしょうか。

この問いへの答えは不変です。どの偉大な宗教的伝統でもそれははっきりしています。観想者になるためには、自分を天地万物とひとつにする意識へと悔い改めなければなりません。宇宙に響く神の声に同調した意識へと悔い改めなければなりません。命のすべての要素の中にある聖性に気づかなければなりません。貧しくてプラスチックな世界に美を誕生させなければなりません。人間らしい共同体を回復しなければなりません。内におわします神に従って成長しなければなりません。情け容赦ない社会にあって癒す人にならなければなりません。これらすべてにならなければなりません。これらは観想の土台であり、実りであり、目的なのです。

観想生活とは、生涯を通してますます観想的になることです。異なる仕方で世に在ることです。自分の中の何が変えられなければならないのでしょうか。何であれ、自分を自分の唯一の中心にするものが変えられなければなりません。何であれ、自分は未完成なものに過ぎないものではないと思い誤らせるものが変えられなければなりません。どんな学位、地位、業績、権力を持っていようとも、それはあらゆる場所、あらゆる人の中におられる神に満ちた世界が教える知恵の代わりにはならないのです。何であれ、内なる究極者の声をかき消すものを鎮めなければなりません。

観想者になるためには、日々の宗教的な行事、慣習を守るだけでは十分ではありません。生きることを始めなければなりません。人々と共に在ること、状況を引き受けること、神がどんな時も臨在されていることを語るような仕方で悪に善をもたらすことを始めなければなりません。

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