L. レクチオ – 聖なる読書の技法

4. December, 2015 • 0 Comments

※ ジョアン・チッティスターの黙想書 “Illuminated Life – Monastic Wisdom for Seekers of Light”(Orbis Books, 2000)の翻訳。長坂聖マリヤ教会週報2015/11/29, 12/6掲載。

ある日、何人かの弟子たちが師父アントニオスに会いに来た。その中には師父ヨセフもいた。老師は彼らを試したいと思い、聖書の一節を示して、若い者から順にその意味するところを尋ねた。各々自分に分かる限りの意見を述べた。しかし、老師はどの弟子にも、「お前は分かっていない」と言った。最後に師父ヨセフに尋ねた。「お前はこの聖句をどう説明するのだ。」師父ヨセフは答えた。「私は分かりません。」師父アントニオスは言った。「げに師父ヨセフは道を見つけた。『私は分かりません』と答えたからだ。」

観想は、人目につかず行う信心ではありません。それは生活のあり方です。観想はものの考え方を変えるものです。観想は生活のあり方を形作るものです。観想は、わたしたちがどう話すか、どこへ行くのか、何をするのか、といったことを問題にします。「観想する」とか、「観想しない」とかいうものではないのです。わたしたちは観想生活を生きるのです。

観想生活には、精神を独特な仕方で新たな深みへと動かすひとつの手段があります。それは魂を新たな広がりへと拡げます。それは他の何よりも視野を広げます。聖ベネディクトの戒律では、公祷は別として、ほかのどんな活動よりも、これに時間が割り当てられています。聖書の日課や聖ベネディクトの戒律で「他の聖なる書」と呼ばれているものを、よく考え、省みながら読むこと、レクチオです。生活のすべてが、それによって与えられる背景に照らして営まれます。レクチオにおいて、修道士の精神は自らを理解するのです。

聖書をよく考えながら読むことで、二つのことが起こります。自分が神の言葉に求めているものを知らされます。また、神の言葉が自分に求めているものを突きつけられます。

修道生活で行われるレクチオは、毎日短い文章のまとまりを読む習慣です。一頁、一段落、あるいは一文を読み、その中で引きつけられたり、刺激を受けたりした語、表現、場面から意味を引き出します。そこから魂の闘いが始まります。なぜ、この語、この句は、自分にとって意味があるのか。なぜ、この語、この場面が気にかかるのか。それは自分にとって何を意味しているのか。それは自分に何を語りかけているのか。レクチオは時間をかけて行う省察の過程であって、その時に頭の中を占めているもの、気を紛らわせているものよりも深い場所、魂が命の残渣を保っている場所へと、わたしたちを連れていきます。

そこで、困難な、苦痛を伴う過程が始まります。この語、この文、この場面が自分に要求しているものを、自分の中に見いださなければなりません。この気づきは私に何を要求しているのか、それを行うことを何が妨げているのか。ここで、この場所で、この時に。今。答えは、あらゆるところから浮かび上がってきます。古い記憶がすべて次々に蘇ってきます。現在の闘いすべてが新たな意味を帯びます。疑いもなく自分には満たされるべき空虚さがあり、形作られるべき幻があり、磨かれるべき魂の勇気がある。それは何か。

突然に、あるいは苦痛なほどにゆっくりと、自分の中が見え始めます。自分がそうであるところのものと、神的な命が自分の内に満ちることになるのであればそうあらねばならないところのものの間に裂け目が口を開きます。もはやそのことを自分に隠すことができなくなります。無視することができなくなります。両手を上げ、掌を開いて、神のただ中へと進むよりほかなくなります。そうしてわたしたちは、自分の中で神が働かれることに対して、自分を開くのです。すべての破れを結び合わせてくださる方に対して、自分を開くのです。わたしたちの中の乾ききってすっかり死んでしまっている部分で煮え立つ<命>に対して、自分を開くのです。

来る日も来る日も、来る年も来る年も、観想者は聖書の中へと赴きます。代々の聖なる知恵を通って戻ってきて、時代の<真理>の中へと出て行きます。その瞬間、その瞬間に、内なる闘いについて、神性について、命について、新たなことを学びます。観想者は、師父ヨセフのように、なんであれ、それが「何を意味するのか」を「知る」ことは決してありません。ただ、生涯の日々、読む節毎に、神がそれらの底にあって自分を招いていることをよりよく知るようになるだけです。

観想者になるためには、毎日時間をとって、ついには自分の心を神の心へと導くことになる想念で自分を満たす必要があります。そうすれば、いつの日か、どのようにしてか、自分の中で二つの心が一つになって鼓動を打ち始めるでしょう。

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