「わたしたち」という意識

28. September, 2015 • 0 Comments

聖霊降臨後第18主日説教

* マルコによる福音書 9:38-48

「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」

「雷の子」の異名を持つ、ゼベタイの子、ヨハネが言いました。何という皮肉でしょうか。この少し前、弟子たちは、「ものを言わせず、耳を聞こえさせない」汚れた霊を追い出そうとして、追い出せなかった出来事があったばかりです。
自分たちがイエスの弟子であることで権威を与えられているかのように考えて、その権威において汚れた霊に立ち向かったものの、相手にならなかったのでした。ところが、イエスの弟子として数えられていない人、弟子たちにはよそ者として見られた人が、イエスの名において悪霊を追い出していた、というのです。

本当は、弟子たちは、その人を見て、自分たちの不信仰の現実に改めて恥じ入り、謙虚さを学ばなければならなかったところでした。ところが、弟子たちは、その人に向かって、自分たちに従え、と命じ、従おうとしなかったから悪霊を追い出す働きを止めさせた、というのです。

弟子たちは、その人に、「イエスに従いなさい」と言ったのではなく、「わたしたちに従いなさい」と言いました。すなわち、イエスさまと「わたしたち」を同一視していました。それは正しいことだったでしょうか。汚れた霊に取り憑かれた子を癒した出来事で、イエスさまは弟子たちに向かって何と言われていたでしょうか。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」と言われたのでした。イエスさまは、この世に遣わされた方ですが、この世に属する者ではない。しかし、弟子たちはこの世に属する者です。ここにある区別は根本的です。人は、イエスの弟子となっても、この世に属していることにおいては、弟子でない人々、さらにはイエスに敵対する人々と何も変わらないのです。

それでは、イエスの弟子として生きる人とそうでない人に違いはないのでしょうか。もちろん、あります。召された者として生きる人、弟子として生きる人は、この世に生きているかぎり、この世に属する者ではありますが、もはやこの世の奴隷ではありません。この世に属する者でありながら、この世に属する者ではない者のように、この世のものを神さまのために用いることができる、この世に生きる自分を神さまのために用いることができる、献げることができる。その自由を持っているかどうかという大きな違いがあります。

しかし、そこでもし、イエスさまの弟子であることで、自分はイエスさまと同様にもうこの世には属さない者であるかのように考えてしまうならば、その自由を生きることができません。実際には、この世に属する者として持っているものを、自分はそれを持っていないと考えるために、それを神さまのために用いることができないからです。自分はそれを持っていないと考え、それによって自分は自由だ、と考えるわけですが、それは妄想の中での偽りの自由に過ぎません。
例えば、差別にあっている人が、自分はクリスチャンになって教会共同体に入ったから、差別のない神の国に属する者になったから、もう被差別者ではなくなったのだ、と考えたら、どうでしょうか。その人は、自分は自由だと思っているだけで、実際には依然として差別を受け続け、その現実に従っているという意味でこの世の奴隷のままではないでしょうか。そうではなくて、身をもって差別を知る者として、その経験、知識、人の繋がりなどを用いて、差別をなくすために声をあげ、働くならば、その人はもはや差別の現実に従うだけの奴隷ではなくなっている、神の国の自由に生きているのです。

逆に、差別をする側にある人は、しばしば差別を訴える人に向かって、わたしたちはクリスチャンだ、共に神の国に属するものだ、わたしたちの間には既に差別するも、されるもないではないか、などと言います。そして、差別を訴え続ける人を憎しみに囚われている、自由になっていない、などと考えます。これは実際によくあることです。似たようなことで、戦争の加害者、被害者として生きている現実が問題である時に、わたしたちの国籍は、韓国でも、日本でもなく、天にあるのだから、仲良くしましょう、などという発言がしばしば聞かれます。

苦しみに遭っている人が、そのことを考えないようにするのであれば、その人は自由を生きてはいないにしても、何も責められるところはありません。しかし、苦しみを与えている側の人が、そのことは考えないようにしましょう、と言うのは、苦しんでいる人にさらに<ものを言わせなくする>汚れた霊の所業を行うことになります。

わたしたちは、弟子であろうとなかろうと、皆、この世に属する者なのです。

このことについて考え違いに陥っていたヨハネに向かって、イエスさまは驚くべき事をおっしゃいます。

「やめさせてはならない。… わたしたちに反対でない者は、わたしたちに賛成する者なのだ。」

この場合の「わたしたち」が、弟子たちが「わたしたちに従わなかった」と言ったときの「わたしたち」とは違うことは、この言葉そのものにおいて理解されます。弟子たちが「わたしたち」というときは、所属が問題になっていて、「わたしたち」は閉じられた集団です。しかし、イエスさまが「わたしたち」と言われるとき、そこに属しているか、属していないかは、問題になっていないのです。

大事なことは、「神の国の到来を告げる」という、そのことに対して反対者であるか、賛成者であるか、ただそれだけだ、とイエスさまはおっしゃるのです。

では、反対者とは、どういう人でしょうか。他者をつまずかせる者です。イエスさまは言われました。「信じるこれらの小さい者の一人を躓かせるような者は、むしろロバの挽き臼を首にくくりつけて海の中にでも放り込まれる方がましだろう」。
イエスさまはここで、イエスさまの名によって悪霊を追い出していた人、弟子たちからよそ者として見られた人のことも含めて、「信じるこれらの小さい者の一人」と言われています。

弟子たちは、その人に対してどのような躓かせるようなことをしたでしょうか。「わたしたち」に属さない者として見て、「わたしたち」に従うことを求めることによって、でした。

この「わたしたち」という意識、「あの人は私と違う」という意識は、創世記のバベルの塔の物語によって聖書が教えるように、人間を神から隔てる、人間の心の根本にある罪への傾きです。ドイツの哲学者シェリングはバベルの塔の物語を註解して言いました。

「諸民族の興り、言葉の混乱、神々の誕生は皆相互に繋がっている。創世記は、諸民族の興りを、諸言語が現れたことと結びつけている。‥(人類が全地に散らされたのは)“外から刺されたトゲのためではなく、内なる混乱のためだった。<わたしたち>は人類の全体ではなく、その一部に過ぎないという感覚のためだった。<わたしたち>は一なるもの(神)にただ属しているのではなく、ある特定の神あるいは神々のものであるという感覚のためだった。この感覚のために、諸民族は、各々がよそよそしく感じるものすべてから遠ざかり、分けられたと感じるまで、あらゆる土地を津々浦々行きめぐり、自分たちに適し、自分たちのための場所を見付けたのだった。”」

「わたしたち」という意識、ムラ意識、ナショナリズム、教派主義、誰々派といった所属、排除、対抗の意識は、「わたしたち」というものがないかのように考えれば、解決する問題ではありません。それは、先ほどお話ししたとおりで、わたしたちはこの世にあって「わたしたち」として生きている現実があるからです。その奴隷となって生き続けるのか、自由な者として生きるのか、それがわたしたちの選択にかかっていることです。わたしたちは、「わたしたち」という意識に死ぬとき、はじめて命を与えられるのです。

昨日、日本キリスト教団山梨教会の修養会に招かれて「エキュメニズム」についてお話ししたのですが、そこで紹介したアンリ・デュナンの言葉を紹介して、説教を結びたいと思います。

「各々の石を(共に生きる)家を建てるために持ち寄りましょう。どんなに小さな石であろうとも、それは家を建てるために役立たせなければなりません。自分の土地、自分の言葉、自分のグループ、自分の教派のことを第一に考えるような狭いものの見方を捨てましょう。そして、共に、全世界に及ぶ神の働きと未来における天の栄光に包まれた神のすべての子らの集いを視野に保ちましょう。一人ひとりが、平和の絆において聖霊による一致を保ち、何にもまして主の栄光と主の再臨への喜ばしい希望を心に抱きましょう。」

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