なんと信仰のない時代なのか

21. September, 2015 • 0 Comments

聖霊降臨後第17主日(特定20)説教

「あなたたちはこの民が同盟と呼ぶものを何一つ同盟と呼んではならない。彼らが恐れるものを、恐れてはならない。その前におののいてはならない。万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。」(イザ8:12-13a)

「神を信じない者は言葉と行いで自らに死を招き、死を仲間と見なして身を滅ぼす。すなわち、死と契約を結んだのだ。死の仲間としてふさわしい者だから。」(知1:16)

これまで、この言葉を、自分に向かって語られた言葉として聞いたことはありませんでした。警告としては読んでいたかもしれません。しかし、宣告として読んだことはありませんでした。

山本太郎さんではありませんが、今は喪に服すべき時でしょう。聖書の伝統で言えば、荒布を身にまとい、頭に灰をかぶって嘆くべき時でしょう。わたしたち日本人は、神を信じず、死と契約を結んだのです。

「力をこそ、義の尺度とするのだ。弱さなど、何の役にも立たないから」(知2:11)と考え、「平和のため、安全のため、将来のため、子どもたちのため」、「備えあれば憂いなし」等と言いながら、死と契約を結んだのです。

「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。」(ヤコ4:1)

外からの脅威が原因で、戦いや争いが起こるのではありません。わたしたちの内なる欲望が、それによって生じる妬み、疑い、恐れが、敵を作り出し、戦いや争いを引き起こすのです。いくら自分と異なると見做すものを排除してみても、敵と見做したものとの間に壁を立て、シャットアウトしてみても、わたしたちは神の目に清いものとはならず、平安を楽しむことはできません。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚す」(マコ7:15)のですから。

「なんと信仰のない時代なのか。」(マコ9:19)

先週の聖餐式聖書日課にあったイエスさまの言葉が心に突き刺さります。このイエスさまの言葉は、イエスさまに敵意を持つものたちに向けられたものではありませんでした。イエスさまに救いを求める者たち、イエスさまに従っている弟子たちに向けて発せられた言葉でした。聞きながらも聞くことができず、言うべき言葉を言うことができないようにする汚れた霊を追い出そうとしてできなかった弟子たちに向かって、発せられた言葉でした。

平和憲法のかけがえのなさを見ていながら見ることができない、国会前や全国の街頭に集まったかつてない数の人々の叫びを聞きながらも聞くことができない、説明すると言いつつ意味不明な言葉を繰り返すことしかできない、そんな権力者に口から泡を出させ、歯切しりさせ、体をこわばらさせている霊を追い出そうとしながら、追い出すことができない、そして、権威をめぐって敵対者たちと議論するばかり。そんなわたしたちにむかって、イエスさまは、「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」と言われたのでした。

「わたしたちは神のみ心を知り、神の手足となって神の業を担う民だ、わたしたちの言葉と働きを通して、神が栄光を顕されれば、このような世であっても神に従うはずだ。」そんな権威者然とした態度を取っているかぎり、汚れた霊を追い出すことはできません。

イエスさまによって召し出され、教えられ、その働きを手伝って、弟子たちはそのみ心を悟ったでしょうか。イエスさまの十字架における死に至るまで悟ることがありませんでした。それどころか、無理解を深めていきました。わたしたちは、そんな弟子たちに自らの姿を重ねて省みる必要があります。わたしたちは、自らの不信仰の現実を苦しい経験の中で学ばねばなりません。そして、そこで砕かれた心をもって、十字架に向かう道を歩まれたイエスさまのみ後に従う信仰を学ばなければなりません。祈りに生きることを、祈りにおいて事を為すことを、学ばなければなりません。

イエスさまが世に神の栄光を顕されても、世はイエスさまに従うことはありませんでした。それどころか、敵意を向けました。では、どのようにして、イエスさまはこの世に救いをもたらされたでしょうか。どのようにして、汚れた霊を追い出されたでしょうか。世における権威者となり、権力をふるうことによってではありませんでした。大勢の群衆に飼い主のいない羊のような有様を見て内臓をひきちぎられる思いに駆られ、人の力では脱することができない囚われの中にある人と共に呻きをあげ、それをもって、神に祈りをささげることによってでした。すべての人の後になり、すべての人に仕える者になることによってでした。世で数に数えられない者を抱くことによってでした。ご自分の肉において、敵意という隔ての壁を取り壊されることによってでした。

「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する。」(マコ9:31)

弟子たちは、このイエスさまの言葉が分からず、怖くて尋ねられませんでした。しかし、これは、自らの不信仰の現実を知る中でみ後に従うことを学んでいた弟子たちに、希望を与える約束の言葉でした。

この日本という国で生きる中で、あるいは教会生活、家庭生活の中で、わたしたちは、神さまと自分を隔てている壁にくり返し突き当り、落胆させられます。しかし、わたしたちは絶望することはありません。たとえ、分からずとも、この約束の言葉、希望の言葉が与えられているからです。神は、地に座して嘆くわたしたちを起こし、立たせて、イエスさまが歩まれたいのちの道を歩ませてくださることを知っているからです。イエスさまの肉と血によって、復活の信仰を何度でも新たにして、強めてくださるからです。

今日から1週間、「パレスチナとイスラエルのための世界平和週間」です。パレスチナの人々は、わたしたちにはとても想像できないような絶望の淵で生きることを余儀なくされています。その低みから、今日、エルサレムで諸教会の主教たちが共に献げることになっている「エルサレムの祈り」をもって、説教を結びたいと思います。

◆ エルサレムの祈り

「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望しない」(コリントの信徒への手紙Ⅱ 4:8)

わたしたちの贖い主、救い主であるイエス・キリストのみ名によって天の父に祈ります。

おお神よ、あなたは、その偉大なるみ業において、この地を聖別し、聖とされました。イエスの死と復活を通して、この地は特別な働きのために取り分けられました。しかし、政治的紛争は止まず、この地を傷つけ、この地に住む人々に危害を与えています。これは、み心に反する恥ずべきことです。

悲しいことに、様々な形の暴力がこの地の人々を苦しめています。嘆かわしいことに、分離壁がパレスチナ人の共同体を引き裂き、パレスチナとイスラエルの対立を激化させています。この壁は正義にも平和にも何も寄与していません。

慰めをお与えください。失望しないための強さをお与えください。どうか分離壁が壊されますように。すべての同じような壁が壊されますように。この壁は「一時の艱難」であることを信じます。「見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(コリントの信徒への手紙Ⅱ 4:16-18)。和解のために、そして平和のために祈ります。わたしたちはこの聖地に生きるすべての人のための正義のために働きます。

「パレスチナ・イスラエルのための世界平和週間」を世界中の兄弟姉妹と共にまもりつつ、この地で正義を求めるすべての人に聖霊の力強い慰めをお与えくださるよう祈ります。どうか私たちが言葉だけで満足せず、代償を伴う連帯の働きに携わることができるようにしてください。わたしたちをあなたの平和の道具とならせてください。み心を行うものとならせてください。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊されました。」(エフェソの信徒への手紙2:14)

アーメン

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