主よ、わたしの仕事は赤色で、あなたの仕事は緑色です

16. June, 2015 • 0 Comments

聖霊降臨後第3主日(特定6)説教
(エゼキエル書31:1-6,10-14, マルコによる福音書4:26-34)

「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」先週の福音書にあったこのみ言葉は、イエス・キリストにおいて啓示された真理を悟らせて聖なる者とする聖霊が注がれた時、主の家族である<教会>という姿において、人々の目に見える現実になりました。

エルサレムから見れば、ガリラヤという異邦人の地、世界の片隅で人々に神の国の訪れを知らせていたイエスさまの小さなからし種のような働きが、十字架における死によって地に蒔かれ、ご復活において芽を出して、ペンテコステの日、現在のイラン、イラクからエジプト、リビア、そしてローマにまで至る世界各地からエルサレムに来ていた人々を驚かせました。ガリラヤ湖のほとり、カファルナウムの町のシモン・ペトロの家で一緒に食事の席に着いていた主の小さな家族は、その300年後には、中央アジア、南アジアからヨーロッパに広がる大きな家族になっていました。そして、2000年後の今日、地球全体に広がる家族に成長しています。

さて、今日の「教会」の姿を見て想起されるのは、本日の日課にあったエジプトをレバノン杉に喩えたエゼキエルの言葉でしょうか、それとも神の国をカラシナに喩えたイエスさまの言葉でしょうか。

神社仏閣に油をまいてまわった男が世間を騒がせました。彼の行為は聖書に基づく信仰とは何の関係も認められないものですが、しかし、4世紀以後、教会の権力思想を支配し、19世紀に「宣教」思想となった精神の落とし子であることも認めなければならないように思われます。その精神とは、教会とローマ帝国と神の国を重ね合わせ、敵と見做したものを力で排除することで、それを築こうとした精神。教会と西欧キリスト教文明と神の国を重ね合わせ、非西欧の文化、宗教をサタンのものと見做して排除することで、それを築こうとした精神です。そのような精神によって築かれた「教会」は、どんなに高くそびえ、どんなに大きく枝を伸ばそうとも、エゼキエルがレバノン杉に喩えたエジプトと同様に、主から裁きを宣告されることになります。「彼の丈は高くされ、その梢を雲の間に伸ばしたので、心は驕り高ぶった。わたしは彼を諸国の民の最も強い者の手に渡す。その者は彼を悪行に応じて扱う。わたしは彼を追放する。諸国の最も凶暴な民である異国人が彼を切り倒し、山々の上に捨てる。その枝はすべての谷間に落ち、若枝は切られて地のすべての谷を埋める。地上のすべての民は、その木陰から逃げ去り、彼を捨てる」と。

1910年に「この世代の内に世界の福音化を」という標語のもと、エジンバラで世界宣教会議が開催されました。そこに集まった人たちは、世界をキリスト教化することで平和が実現するのだという情熱を持っていました。わずか数年後、第一次世界大戦が勃発して、そのような情熱は打ち砕かれました。大量殺戮を可能にする近代兵器を作り出し、それを用いて戦いを交えたのはキリスト教世界の人々だったからです。さらに第二次世界大戦があり、アウシュヴィッツがありました。その経験は諸教会に宣教理解を根底から問い直させることになりました。

では、神の国は、どのようにして実現されるのでしょうか。イエスさまは言われました。「土がひとりで実を結ばせるのだ」と。「種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、種を撒く人は知らない」と。

神の国は、人の手で建設されるようなものではないのです。政治的、文化的影響力の掌握によって、あるいは、経済基盤の確保によって建てられるようなものではありません。道徳が厳格に守られる共同体を作ることによって立てられるものでもありません。黙示文学に照らして「しるし」を読み解き、「条件」を満たすことで、その到来が早められるようなものでもありません。

「種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」と、イエスさまは言われたのです。成長させる仕組みを知って、その仕組みを作動させることが宣教の課題ではないのです。その刈り入れの時は人間が早められるようなものではないのです。宣教は、そのようなものではありません。

それでは、イエスさまは、わたしたちに、ただ種を蒔きなさい、あとは神さまに任せなさい、と言われたのでしょうか。そうではありません。農民の仕事は、ただ種を蒔くだけではありませんね。

パレスチナでは、すき、つるはし、草とりぐわなどが、発掘調査で出土していますが、人々は、小さな地所では人力で、大きな地所では、牛、ろば、らくだを用いて、すきを使って耕しました。いずれにしても、大変な労働でした。人々は、「主よ、わたしの仕事は赤色で、あなたの仕事は緑色です。わたしたちは耕します。しかし穀物をくださるのはあなたです」という祈りを唱えて、耕作に取り組みました。数回にわたって畑をすきかえし、まぐわでかきならしてから、種が蒔かれました。貴重な小麦の種を蒔くときは、注意深く、かがんで、畦溝に種を置きました。そして、過越祭の頃、すなわちイースターの頃、時が来ると収穫したのでした。

本日の福音書の前のところで、イエスさまは「種を蒔く人」のたとえを話され、「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」、「…良い土地に蒔かれたものとは、み言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は30倍、ある者は60倍、ある者は100倍の実を結ぶのである」と、弟子たちにその説き明かしをなさっています。

イエスさまが「土がひとりで実を結ばせる」と言われる時、この理解が前提になっています。神の言葉である種が蒔かれる土はわたしたちの魂であり、それをよい土地に耕すのはわたしたちの仕事、それを成長させるのは神さまです。

わたしたちが、み言葉を自分が生きている状況において受け止める時、神さまは聖霊を注いで、わたしたちのうちにイエスさまの姿を形作り、それを成長させ、実らせてくださいます。わたしたちが蒔くのは、その実りです。それが聖なる者とされるということであり、世に派遣されるということです。

イエスさまは、どうしたら教会を成長させられるか、どうしたら衰退を止められるか、いつ刈り入れればよいのか、などと思い煩う私たちに言っておられるのです。農民を見なさいと。農民は種の成長の秘密を知らないが、神から実りを与えられることを信頼して、土を耕し、種を蒔くではないかと。

詩編に、涙を流しながら種まきに出る人は、喜びの内に刈り入れる、という句があります。手持ちの食糧に乏しくても、農民は実りがあることを確信して、それを種として土に蒔きます。あなたたちもそのような信頼を持ちなさい、とイエスさまは言っておられるのです。

「主よ、わたしの仕事は赤色で、あなたの仕事は緑色です。わたしたちは耕します。しかし穀物をくださるのはあなたです。」

この祈りをわたしたちの宣教のための祈りとして、「土」を耕し、苦しい時も天からの恵みを出し惜しまず、実りとしての自分たち自身を地に撒く歩みを続けてまいりましょう。

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