クリスマスの慣習

7. 4月, 2015 • 0 Comments

※ 長坂聖マリヤ教会 週報のコラムとして書いたもの(2014/11/30,12/7,12/14,12/21,12/28, 2015/1/4), 2015/12/8改訂

○ 飼い葉桶(クリッペ/クリブ)の展示

クリッペは、飼い葉桶とそこに眠るキリスト、マリアとヨセフ、天使、羊飼い、東方からの学者、家畜たちのセットです。

この慣習は古代教会にまで遡るようですが、現在のような形になったのは13世紀頃で、イエスの歴史的、人間的な詳細への関心が高まったことが背景にあったようです。

1223年にはアッシジの聖フランチェスコが、グレッチオで飼い葉桶の祝祭を祝い、それが他の修道会における同様な祝祭を行うモデルとなりました。16世紀になると、広く一般に普及し、最初に教会で、次に18世紀頃からは家庭の慣習として受容されました。

このクリッペに表されているイエスの人間性への関心、あるいはアッシジの聖フランチェスコにおいて形になった人間としてのイエスに倣って生きようとする霊性は、西方教会と東方教会の分裂の背景にもなっています。ちょうど古代のアンティオケア学派とアレキサンドリア学派の間にあったような、イエス・キリストの人間性に強調点を置くのか、神性に強調点を置くのか、という違いが、ここで改めて表面化したとも見ることができます。

西方の教会ではクリスマスが、東方の教会ではイースターが強調されてきましたが、その背景のひとつとして、13~14世紀頃に明確になったこの霊性の違いがあります。

○ クリスマス・ページェント(生誕劇)

クリスマス・ページェントは、クリッペと同様に、イエスの歴史的、人間的な詳細への関心が高まった13世紀頃、受難劇や復活祭劇と並行して、それらに範をとって発展しました。11世紀~12世紀頃は礼拝の一部として行われ、それがドラマ化され、対話化されて、礼拝とは独立した劇になりました。

○ クリスマスリース、アドベントクランツ

4世紀にシリアの教父エフライムが、1月6日のキリスト降誕と顕現の祝祭について記している中に、この日にはどの家も花輪(リース)で飾られた、という言及があります。「あの夜が来た。全世界に平和を与えた夜が!すべてが目覚めているこの夜に、誰が眠るだろう!」と、はかりしれない喜びに包まれた様子が感激をもって描かれていて、教会の建物の外壁はまさにこの日を祝うために輝き、子どもらは歓喜の声をあげる、と記されています。その夜、人々は降誕と羊飼いの拝礼と星の顕現を祝いました。その翌日には、博士たちの拝礼とヨルダン河におけるキリストの洗礼が祝われました。

このように、リース/クランツ、クリスマス・ツリーに通じる象徴的な意味を持った飾りは古代教会の記録にも見ることができますし、リース自体のルーツ、あるいは常緑樹の枝や葉に宗教的な象徴的意味を持たせて用いる慣習となると、さらにはるか古代の諸文化、諸宗教に遡ることができます。しかし、現代のクリスマスの慣習自体はそれほど歴史があるわけではありません。壁にクリスマスリースをかける慣習は19世紀頃、四本(ないしは五本)のロウソクを立てるアドベントクランツの慣習は19世紀後半~20世紀初めと考えられています。クリスマス・ツリーの歴史は10世紀頃にまで遡りますが、現在のような形で広く飾られるようになったのは16世紀頃のことです。

リースは英語、クランツはドイツ語で、共に「花輪、冠、輪状のもの」のものを意味する言葉です(飾る時の水平、垂直は関係ありません)。リース/クランツは、古代から称賛、崇敬、戴冠を表す方法として用いられていますので、それは自ずと王であるキリストを象徴するものとなって、その到来を待ち望むことが表現されます。

アドベントクランツは、4本のロウソクを立てて樅の枝で周りを飾ったものです。アドベントの4回の主日毎に火を灯すロウソクを増やしていきます。ドイツ・ハンブルグの孤児院で、「クリスマスまであと何日?」といつも訊ねる子供たちに、大きな白いろうそくと小さな赤いろうそくを木の車輪に立てたものを見せ、アドベント日曜日には大きなろうそくを、それ以外の日には小さなろうそくを灯しながら、その日数を教えたのが起こりだと言われています。

○ クリスマス・プレゼント

クリスマスと言えば、サンタクロースが持ってくるクリスマス・プレゼントが連想されるようなことになっていますが、これは元来はキリスト教とは関係なく、民間の伝統的習俗に由来する慣習です。

古代ローマでは、農耕の神サターンを祝う冬至の祭りが12月17日から1週間行われました。この時、贈り物をし合う慣習があって、それがローマ帝国の支配した各地にキリスト教化されながら残ったのではないかと考えられています。

その中で後にクリスマスに直接に繋がったのが、小アジア(現トルコ)の都市ミュラの主教ニコラオス(4世紀)を記念する祝日である12月6日に子どもにプレゼントをあげる慣習です。他にも、ギリシアでは、カッパドキア(現トルコ)の三教父のひとり、聖バシレイオス(4世紀)の祝日の前夜である大晦日に子どもにプレゼントをあげる慣習があります。

ミュラのニコラオスの生涯については、多くの伝説はあるものの、歴史的事実はほとんど分かっていません。貧困のために子どもが身売りされそうになっていた家に煙突から金貨を投げ入れて救った等々の伝説があり、西欧では11世紀から子どもの守護聖人として広く崇敬されるようになりました。1533年、ルターは、プレゼントを配るのを聖ニコラオスの日から降誕日に移すように提案しました。宗教改革の一環として、聖人崇敬の歪みを正そうとしたのでしょう。

それで、今や、プレゼントを子どもに持ってくるのは、聖ニコラオスではなく、キリストになったのです。ルターは幼児の姿のキリストを考えたようですが、後には、キリストではなく、子どもの天使が持ってくるということになって(名前はChrist-child)、ドイツ語圏南部では今もその形が残っています。

オランダでは、聖ニコラオスが持ってくる形が残りましたが、日はクリスマス・イブに移りました。米国のニューヨークは元々はオランダ移民の作った町で、1809年にそのルーツを示す象徴として守護聖人に聖ニコラオス(オランダ語読みでサンタクロース)が選ばれました。

そこから現在のサンタクロースのイメージが作られていくことになりました。当初は主教の服装をしていたサンタクロースが次第に世俗化されていって、19世紀末に現在のようなイメージができあがったのです。そのキャラクターは、英国で17世紀初頭に生まれた「ファーザー・クリスマス」に由来しています。ファーザー・クリスマスは、プレゼントを持ってくる人ではなく、酔っぱらって赤ら顔の陽気なお爺さんでした。

○ クリスマス・ツリー

クリスマスにまつわる慣習の多くが、その前史は古代にまで遡ることが想像されるとしても、現在のような形になったのは案外と最近のことです。クリスマス・ツリーも同様です。

その背景には、よく想像されている通り、生命の再生への願いを込めて常緑樹を飾る異教の慣習、冬至の祭りの記憶があるのかもしれません。しかし、飾りを付けたモミの木は、キリスト教化された異教の慣習というわけではなく、キリスト教に固有の由来を持ちます。

11~12世紀に典礼の一部として、13世紀頃には劇として独立して教会の正面玄関の前で、聖夜に降誕祭の序幕として、その「生誕劇」と並んで、「神秘劇」、すなわち楽園における堕罪の物語が演じられました(クリスマス・ページェント)。その舞台には、罪の誘因となった果実をつけた「木」が立てられていました。この「善悪の知識の木」は、ドイツではリンゴの木においてイメージされていましたが、クリスマスの頃に葉を茂らせたリンゴの木を見つけるのは困難でしたので、常緑樹のモミが用いられました。以前からこの時期にモミが飾りとして用いられていたことも手伝ったのでしょう(この点において古代からの慣習が継承されたわけです)。そして、人々はモミの木に1つの(あるいは複数の)リンゴの実をぶら下げました。クリスマス・ツリーは、人の罪は聖なる夜にキリストの受肉によって贖われたのだ、ということを示す象徴として飾られるようになったのでした。人々は、キリストの受肉を十字架における死に意識的に関連づけ、リンゴとともに、ホスティア(聖餐式のパン)をモミの木にかけました。人間を死に導くリンゴに対して、生命を与えるパン(=罪の赦しのために献げられたキリストのからだ)が対置されたのです。クリスマス・ツリーは、ページェントの道具である、この木に由来するのです。

やがて、ホスティアは「クリスマスのクッキー」(人の形をしたジンジャークッキー等)に姿を変えていき、当初のこの象徴的な意味合いは意識されないものになってしまいました。

さらに、東方からの三賢者の献げ物を象徴して飾られた金メッキを施した薄い金属板がぶら下げられ、「キリストは世の光である」ことを象徴するロウソクが飾られて、今日のクリスマス・ツリーの原型が完成しました。

このように飾られたツリーが普及したのは、ドイツでは18世紀、スイスやスカンジナビア諸国、英国では19世紀、フランスでは1870年代、米国でも19世紀後半になってからのことです。

○ シュトレン(Stollen / Christstollen)

ドイツやオランダでは、アドベントの間、シュトレンを少しずつスライスして食べる慣習があります。練り込まれたドライフルーツの味が日ごとにパン生地に浸みて美味しくなるので、今日よりも明日、明日よりも明後日とクリスマスが楽しみになる、と言われます。

発祥はザクセン州のドレスデンで、王宮でアドベント用に作られたパンに由来します。その材料や製法については教会会議が監督し、断食の期節であるアドベントに食べるパンであるということで、バターを使うことが許されなかったために、味がない硬いパンでした。

1450年、エレクター・エルンスト王子とその兄弟アルブレヒト公爵が教皇ニコラオス5世にバターの使用禁止を解くように嘆願しました。しかし聞き入れられず、許可が得られたのは、1491年、5代後の教皇イノケンティウス8世がドレスデンに送った「バター・レター」と呼ばれている手紙によってでした。ただし、シュトレンを作るドレスデンのパン屋には「罰金」が課せられました(徴集された罰金はフライベルクの聖堂建築に充てられました)。この罰金の徴収は、ザクセン州がプロテスタントになるまで続きました。

シュトレンの形は、産着にくるまれたイエスが眠る飼葉桶を象徴しています(※シュトレンという語は、ストールと同義の産着を意味する語であるという説の他に、坑道や柱のような形状のものを指す語から来たという説もある)。

現在のような甘い美味しいケーキになったのは20世紀になってからのことで、第二次世界大戦が始まる頃にはドレスデンのシュトレンは大西洋を越えて北米、南米に輸出されるまでになりました。

ドイツ・ザクセン州ドレスデン発祥のシュトレンの他にも、各地にクリスマス特有のケーキがあります。

○ パネットーネ/パンドーロ

イタリアでは、アドベントに入るとパネットーネという柔らかなドーム型の菓子パンを焼いて親戚や友人に配る慣習があって、かつてはクリスマスの時期には家にゴロゴロしていたそうです。パネットーネには、仔牛の小腸から採取される特殊なイーストであるパネットーネ酵母が使われねばならず、発酵と生地を休ませる事を何度も繰り返して作られます。手間がかかるため、現在では買ってすまされることが多いようです。ヴェローナでは、ドライフルーツを入れないものが伝統で、パンドーロと呼ばれています。

○ 第12 夜のケーキ

イギリスには、チューダー朝(宗教改革の頃の王朝)の時代からの伝統の、第12 夜のケーキがあります。元々の第12 夜のケーキは、イタリアのパネットーネに似たものだったようです。

「第12 夜」というのは、12 月25 日から始まる12 日間の最後の夜のことで、この12 日間はイエスさまの誕生日に始まって、最初の殉教者聖ステパノ日、聖ヨハネ日、聖なる幼子の日など、毎日教会の祝日が続きます。第12 夜の祭りは、その結びの祝いであり、また諸聖徒日(11/1) から始まる冬の終わりの祝いです。その翌日1 月6 日の顕現日から、春が始まるのです。

第12 夜のパーティーでは、はじめに「第12 夜のケーキ」が食べられます。ケーキの中には、豆が一つ(または二つ) 入っていて、それがあたった人が、王様(と女王様) になって、パーティーを仕切ります。主人が召使になり、召使が主人になって、裕福な人たちと貧しい人たちが社会的立場を逆転させて祭りが行われます。これはローマの農耕神サトゥリアヌスの祭りに由来すると考えられています。

中世には、12 月6 日の聖二コラオスの日に子どもたちの中から「主教(The Boy Bishop)」が選ばれ、28 日まで、聖餐式執行以外は、主教の権威を持たされる、ということも行われていました。この慣習は、宗教改革の時代、1542 年にヘンリー8 世によって禁じられ、カトリックに戻したメアリ女王によって1552 年に復活させられたものの、エリザベス女王によって最終的に廃止させられました。第12 夜の祭りが終わると、クリスマスの飾りは片づけられます。そして、この祭りの後の最初の月曜日は「鋤すきの月曜日」と呼ばれ、その日から畑仕事が再開されたのでした。

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