教会委員会の由来

10. January, 2015 • 0 Comments

長坂聖マリヤ教会の週報(1/11,18)のコラムとして書いたものです。

◆ 英語の「ベストリー」は、文字通りに「祭服室」を意味する他、そこで持たれる「教会委員会」を意味します。

※ 「ベストリー」は部屋としては「サクリスティ(聖具保管室)」を兼ねていたり、また教会の公文書(英国では結婚や葬儀の記録、日本では教籍簿)の保管室を兼ねていたりします。また、地域によっては、そこで礼拝後に信徒がお茶を飲んだり、埋葬、火葬を終えた遺族にお茶が振る舞われたりする部屋でもあります。

◆ ローマ帝国の支配のもとで(AD43-410)、4世紀末までにブリテン島のケルト系住民(ブリテン人)はキリスト教化されていましたが、5世紀にアングル人、ユート人、サクソン人(ドイツのザクセン州の人たちと同族)等のゲルマン系諸部族がブリテン島に侵攻して、教会は破壊され、ゲルマンの宗教に染められました。しかし、ケント王国(ユート人)のエゼルベルト王(c.560-616)のもとでキリスト教が再導入され、イングランドの全教会が忠誠を誓った最初の大主教と言われる第8代カンタベリー大主教タルソスのテオドロス(c.602–690, 在位668-690)によって、共同体の単位「タウン(Tun~Town)」が教会の「パリッシュ(parish)」として組織されました。「パリッシュ」(聖公会では「教会区」、カトリックでは「小教区」)は、古代ギリシア語の「他国人として宿ること(Ⅰペト1:17)~聖職の居住地」を意味するパロイキアに由来し、ラテン語、古フランス語を経て英語に入った語です。テオドールが据えた基礎の上に発展した教会は9世紀にデーン人(ヴァイキング)の侵攻により再び荒廃しましたが、9世紀末、アルフレッド大王の治下で急速な復興を遂げ、10世紀にはパリッシュ制度は確立しました。

ゲルマンの「タウン」は元々独立性の高い自治組織でしたが、封建制の確立と共に州や荘園といった上部組織に力を奪われました。しかし、11世紀にノルマン人が進出し、さらに侵略、支配するようになると、教会全体としてはローマの影響を強く受けるようになって独立性を持ったサクソン的教会の特色を失っていったものの、ノルマン人貴族に対する抵抗の中で、パリッシュの集まりが新たに再組織され、上部組織の衰えと共に力と責任を増すことになりました。この集まりでは、パリッシュの司祭のもとで、教会のことだけでなく、その地域共同体=パリッシュ全体に関わることが議されました。「ベストリー(=教会委員会)」は、こうしてパリッシュの議会として生まれたのです。ベストリーの名で呼ばれるようになったのは14世紀頃からです。

現在の受聖餐者総会に相当する集まり(オープン・ベストリー)を構成し、教会委員の選出について意見を表明できたのは、貧困者のための税を納めた者全員、教会委員会(シークレット/クローズ/セレクト・ベストリー)を構成したのは主にその土地の資産家でした。

◆ 国教会の体制が確立した16世紀後半、教会委員会が責任を持つ範囲は大きく拡大されました。特に世俗的な事柄に関して判断をする権威がより多く付与され、国家から責任を託されるようになりました(カルバン主義における教会会議と違って、審判廷の権威は与えられませんでした)。それと共に、教会委員会の働きを共同体の成員が広く分かち担う形から少数の固定的な成員が専有する形へという変化も起こりました。

教会委員会は、教会に関わることとしては主に以下の2つの責任を負いました。
(1) 教会区司祭の働きと生活に必要なものを用意し、教会の建物などの修理維持にあたり、礼拝中の尊厳を保つこと。
(2) 教会内の全信徒が少なくとも年3回聖餐にあずかったかどうかを注意し、また重大な犯罪を犯したり、分派や交わりを絶った信徒を主教の裁定を仰ぐために主教のところに連れて行くこと。

市民生活に関わっては、道路修繕(1555)、武器の保守管理と供給(1557)、貧困者の保護(1598, 1601)など、次々と責任を負うことになり、国家から独立した組織であった教会区、教会委員会が、17世紀初めまでには国家システムの末端の行政単位、行政機関に変えられていきました。

1835年の時点で、英国には15,600の教会委員会があって、教会施設とその働きの運営と維持(建物、墓地、貧困者に住居と仕事を提供する授産施設、寄付金による慈善組織等)、宗教的・道徳的規律の励行、治安の維持や迷惑行為の抑制(拘置所、笞刑柱、刑務所、見張所等の管理)、道路の修繕、共有地、市場を開く広場、井戸の揚水機、家畜、分銅・物差し、時計、消防設備等の管理責任、害虫・害獣の駆除、兵士や水夫の世話、税金の徴収等、市民生活に関わる広範囲の事柄を担っていました。

◆ 19世紀に入って、教会委員会から市民生活に関わる責任が分離されていきました。1837年に、貧困者の保護は、パリッシュ単位でなく、その働きが十分にできるように複数のパリッシュを合わせた単位で立てられた委員会(Poor Law Union)が責任を持つようになりました。そして、ロンドンでは1855年に、それ以外の地域では1894年に、教会委員会とは別に、選挙で選ばれた議員で構成される議会が立てられて市民生活に関わる事柄の責任を持つようになったのでした。

◆ 米国聖公会は英国教会の法規を継承しましたが、独立前は現地を訪ねることもなかったロンドン主教の管轄下にあったこと、植民地に神学校が作られず、聖職は英国王への忠誠を誓わねばならなかったこと、独立戦争後しばらくは聖職が不在であったことなどから、自ずと信徒のリーダーシップがより強調される形になりました。

日本聖公会の法規は英国教会の法規を米国経由で継承したものですが、教会委員は受聖餐者によって毎年選挙で選ばれること、教会委員は堅信を受けた信徒の最低3人以上で構成されること等は米国聖公会で形成された法規を継承しています。

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