礼拝における沈黙・黙想・黙祷 :: 海辺のノート

礼拝における沈黙・黙想・黙祷

27. June, 2014 • 0 Comments

◆ 2014/6/22 週報のコラム 礼拝中の沈黙について

† 聖餐式の式文中、3箇所で<沈黙>する間を持つことが勧められているのは、ご存知でしょうか。これは現行祈祷書から初めて明示されるようになった指示です。

(1) 165頁に、「司祭は旧約聖書、使徒書、福音書の後に『いま聞いたみ言葉について黙想しましょう』と言って黙想の時をおいてもよい」と書かれています。
(2) 168頁に、「(代祷の)各応唱の後に、しばらく黙祷してもよい」とあります。
(3) 176頁の感謝聖別祷の結び、栄唱の後に、「ここでしばらく黙祷してもよい」とあります。

†『日本聖公会祈祷書解説』(1994)には、この指示について、次のように書かれています。

「礼拝中に沈黙を生きた仕方で備えることは会衆の助けになる。この黙想の時間は、礼拝を中断する印象を与えないために、余り長くならないほうがよい。」「み言葉を自らの心に浸透させる時、わたしたちは神の臨在を感じ、主キリストとの一致を黙想のうちに感じることができる。1990日本聖公会祈祷書ではこのことを重視している。」

† 東北教区主教の加藤博道師父は、著書『礼拝学日記~バークレイより』を「共同の沈黙」と題する章で始めていて、次のように書かれています。

「(米国の神学校で)毎日の礼拝の生活が始まったとき、一番始めに強い印象を受けたのは、礼拝の中の『沈黙』と『代祷』であった。…聖餐式でも、朝夕の礼拝でも、聖書の朗読の後にはゆったりとした沈黙の時があり、また代祷の中でも静かで落ち着いた沈黙の時が持たれる。」

「今日の礼拝理解は、共同体礼拝の中の事柄全てが全会衆にとって『よく見え、よく聞こえる」ことを重視し、中世のミサを特徴づけた式中の司祭の私的ともいえる沈黙の祈りと、それによってもたらされるある種の司祭中心的な神秘的雰囲気を廃している。しかし今改めて再認識されている沈黙は『共同の沈黙』である。その沈黙の中で、私たちは個人的にも、祈りの共同体としても、神の前に心を開くよう招かれる。」

◆ 2014/6/29 週報のコラム – 礼拝中の黙想について

前回、聖餐式の式文中、3か所で沈黙する間を持つことが勧められていることを確認しました。

旧約聖書、使徒書、福音書の後は、「黙想の時をおいてもよい」とされています。「礼拝を中断する印象を与えないために、余り長くならないほうがよい」ということもありますから、実際には30秒ぐらいの間を取ることができたらよいと思います。

しかし、その短い時間で黙想ができるものでしょうか。朗読を聞き終わってから、さあ黙想しよう、何が書いてあったかまず確認しよう、という調子では、何もしない内に30秒は過ぎてしまうでしょう。

黙想はこのようにしなければならない、という決まりはないのですが、伝統的な黙想の方法、レクチオ・ディヴィナ(聖なる読書)がひとつの参考になると思います。

たっぷり時間があるような状況で行う場合であれば、まずは聖書を小見出しがついている単位(日課の単位)で、ひとつひとつの言葉の手触りを確かめるようにしてゆっくり読みます(レクチオ)。全体を幾度か繰り返して読む内に、特に心に響いてくる節や句、注意をひかれる節や句があれば、その言葉を幾度か口ずさみます(メディタチオ)。繰り返す内に言葉は短くなるかもしれません。そうしている内に、神様に向かって質問、嘆願、賛美、感謝の言葉が出てくるかもしれません(オラチオ)。さらに、もはや言葉のいらない状態、神様のまなざしのもとにとらわれているような状態になるかもしれません(コンテンプラチオ)。

急いで答えを求めようとしたり自分の経験に結びつけようとすると、分からないという印象ばかりが残って、肝心のみ言葉が心に残らなかったということになりかねません。レクチオとメディタチオだけでも十分に黙想です。そこから先は、自然に導かれるままでよいのです。

礼拝の中では、朗読を聞きながら、そのとき特に自分に響いてきた言葉を心に留めて、それを心の中で幾度かつぶやき、味わう、といった形になるかと思います。

意識してこのようにしようとせずとも、心が落ち着いた状態で聖書日課の朗読を聞くならば、誰しもが自然にこのような形で黙想を行っているのではないかと思います。ですから、そこで間断なく礼拝が進行してしまうと、いかにもせわしない感じが残ってしまうのです。

※ 黙想(レクチオ・ディヴィナ)については、『目からウロコ 聖書の読み方 レクチオ・ディヴィナ入門』(来住英俊(きしひでとし)神父, 女子パウロ会, 2007)という小さな冊子が入門書としてお勧めです。

◆ 2014/7/6 週報のコラム – 礼拝中の黙祷について

前回は朗読後の「黙想」について書きました。「黙想」は、「黙ってあれこれと思いめぐらすこと」ではなく、「自分を空しくして聴くこと」です(「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう」詩62:1, 「どうぞお話しください。僕は聞いております。」サム上3:10)。しかし、自分を空しくするのは容易ではありません。あれこれと自分の言葉が出てきて、聴いたみ言葉を覆い隠してしまいがちです。そこでレクチオ・ディヴィナのような方法があります。漠然と聴いたことの全体を考えるのではなく、その時に響いてきた言葉、気にかかった言葉を、繰り返し心の中で呟く、それによって自分を空しくしつつ、み言葉が自分に語りかけてくるのを待つのです。「黙想」とは「聴く祈り」、黙祷のひとつの形です。

聖餐式中、各代祷の応唱の後と、感謝聖別祷の結びの栄唱の後に、黙祷することが勧められていますが、同じ黙祷と言っても、代祷の応唱後は「語りかける祈り」、栄唱後は「聴く祈り」がふさわしいと思われます。

とはいえ、応唱後の黙祷のために、言葉で祈るのに必要な間を取ったら、礼拝が中断した印象を与えてしまうでしょう。

そこでお勧めなのが、イメージで祈る黙祷です(これも、来住神父さんから学びました)。祈りで覚える相手を、まずできるだけ具体的に心に描きます。そして、その人を神さまの柔らかな光が包んでくれるというイメージを思い浮かべます。あるいは、イエスさまがその人の傍らにきて手をさしのべるイメージを思い浮かべます。その他、聖書のいろんな場面を用いることができます。

長坂聖マリヤ教会では、冒頭でまとめて題目をあげるのではなく、各祈りの前に題目を呼びかけていますから、応唱後に黙祷するのではなく、会衆の代表者が題目を呼びかけているのを聞きながらイメージで祈る黙祷を捧げるとよいかもしれません。

なお、米国聖公会では、特祷の前にも黙祷のための間を持つように勧めています。そこで想定されている黙祷は、「聴く祈り」ではなく、「語りかける祈り」です。特祷はローマ・カトリックは「集会祈願」と呼ばれ、聖公会の英語祈祷書では「コレクト(集祷)」と呼ばれています。この起源は明確になっていませんが、「人々が集まるときに祈られた祈り」、あるいは「人々の祈りを集めて祈られた祈り」であると言われます。特祷の前に沈黙の間を持つことで、そこでの個々人の祈りが特祷での教会の祈りへ収斂されていく形になるというわけです(※ 加藤博道主教『礼拝学日記』p.18-19)。

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