三位一体なる神 :: 海辺のノート

三位一体なる神

15. June, 2014 • 0 Comments

三位一体主日(A年)説教
マタイによる福音書 28:16-20

holy-trinity-icon本日は、三位一体なる神を覚える祝日、「三位一体主日」です。祝日というと、クリスマス、イースターなど、神による救済の歴史的出来事を主題とした日、あるいは、使徒や福音書記者など、人物を記念する日がほとんどですが、今日は、神学的主題を覚える日ということで、少々特殊な祝日です。<教会の宣教の時>を黙想すべき時期である聖霊降臨後の節の始まりにあたって、この三つなる神についての理解を振り返りましょう。

皆さんは、「さんいいったい」と読んでおられるでしょうか。それとも、「さんみいったい」と読んでおられるでしょうか。世間では「さんみいったい」と読まれることが多いようですが、祈祷書のフリガナに注意していただくと分かるように、教会では「さんいいったい」と読みます。

「さんみ」という読み方は、「連声」(れんじょう)という日本語の古い規則に従った、発音をしやすくするために音を変化させる読み方で、古代の律令制の官位を言うときには「しょうさんみ」「じゅさんみ」というように、「さんみ」と発音されます。

教会で、「さんみ」と発音せずに、「さんい」と発音するのは、これをひとつの言葉としてではなくて、「さん」と「い」を「三つ」と「位格」という二つの言葉として言うためであろうと思います。「三つの位格からなり、かつ一体であられる神」と言うべきところを約めて「三位一体の神」と言い表しているのだということをより明確に表現するため、音を変化させずに「さんいいったい」と発音するということです。

「三位一体」という教理は、異端を排除するために4世紀に形作られました。もちろん、そのときに初めて出てきたということではなくて、本日の聖書日課からもうかがえるように、既に初代教会の時から、あるいは既に旧約の時代から人々の信仰体験の内に存在していた理解で、古代の教会で様々な異端的な考え方がどっと出てきたときに、正しい信仰理解を確立しようとして、その言い表し方として整理されました。たとえば、「イエスさまは、人間のように見えただけで、人間ではなかったのだ」とか、「イエスさまは、わたしたちと同じ人間だったが、神様の愛の戒めを完璧に守って生きられたことで、神の子とされたのだ」とか、「この世界を創造した神、旧約聖書の神は、本当の神ではなくて、イエスさまが本当の父なる神を示してくださったのだ」など、父なる神とイエスさま、そして聖霊との関係をどう理解するかによって、様々な異端が生まれてしまったのです。

「三つの位格からなり、かつ一体であられる神」、「三位一体の神」という表現によって、教会は、どのような信仰理解を継承してきたのでしょうか。

「位格」という言葉は、馴染みのない日本語ですが、これは原文のギリシア語では、顔という意味のプロソーポンという言葉が使われていました。それがラテン語では、英語のパーソナリティという言葉の語源であり、仮面といった意味合いのペルソナという言葉で表現されました。英語では人格、性格といった意味合いのキャラクターという言葉に訳されています。日本語では、人ではないので「人格」とも言えず、「位格」という難解な印象を与える言葉を使うことになってしまったのでしょう。この言葉で言わんとされていることは、「神は、この宇宙の最高の本質、自然の原理、世界理性であるというような、抽象的で静的なるものではなくて、永遠の昔から歴史の中で行動され、わたしたちに好意を寄せ、わたしたちを求める方として出会う方である」ということです。言い換えれば、神様は、人間と、「あなた」と「わたし」というように呼びかけ合う関係におられる方である、ということです。

私たちは神と三つの仕方で出会います。わたしたちは、「御子」なるイエスさまにおいて神様と出会います。そのご生涯、ことに十字架における死と復活、その教えと業において、神様に出会います。また、先週お話ししたように、別の弁護者である聖霊において神様と出会います。聖霊は目に見えませんが、神の働き、聖書の教えが、自分の人生において理解されるとき、聖霊が働いてくださっていることを私たちは実際に知ることができるわけで、そのような仕方で、わたしたちは聖霊において神様と出会います。同時に、「御父」なる神ご自身、私たちと向かい合う方であり続けておられます。御父は、わたしたちに救いの約束を与え、まことと憐れみをもって、また熱情をもって、その実現のために倦むことなく働き続けておられます。わたしたちは、それに信頼して、「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけ、祈るのです。このように、わたしたちは三つの仕方で神さまと出会う、どの仕方で出会う神さまも、古代イスラエルの民が告白し、また初代教会が告白し、世々の聖徒たちが告白してきた唯一の神である、そういう意味で、神様は「三つの位格からなり、かつ一体であられる神」なのです。

「あなたとわたし」というように互いを呼び合う関係にあるのは、神様とわたしたちとの関係だけのことではありません。父なる神は、イエスさまを、そして聖霊を、この世に遣わされる方です。イエスさまは、天におられる神さまに、「父よ」と呼びかけ、祈られました。また、先週の聖書日課でイエスさまは、聖霊に対して、「別の弁護者」「この方」と表現されていました。父なる神、子なる神、聖霊なる神も、互いの名を呼び合う交わりの関係の中におられます。

この交わりの中に入れられることが、洗礼を受けるということの意味である、そのように、本日の日課で、マタイ福音書は、告げています。新共同訳では19節後半が「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」となっていますが、この翻訳はなめらかな日本語にしようとするあまりに原文の意味を損なっています。原文には、「父と子と聖霊のみ名に入れる洗礼を彼らに授け」と書かれています。「み名に入れる」というのは、聖別して神のものとして神の本性にあずからせる、ということ。その神の本性とは<愛>であり、父なる神に発して、子なる神において表され、聖霊なる神によって成り、父なる神に帰するものであって、わたしたちは、洗礼によってこの三つなる神の聖なる交わりの内に入れられ、この世界に愛を充満させんとする三つなる神の働きに用いられる器とされるのです。

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