民衆の復活事件としてのペンテコステ

9. 6月, 2014 • 0 Comments

聖霊降臨日(A年)説教
ヨハネによる福音書14:8-17

holy-spirit◆ 梅雨に入りました。ここ数日、関東地方で降った雨は、6月としては記録的な雨量だったそうですね。スイカやえんどう豆など、畑のツタ植物が急に伸び始めました。

雨が注がれることと聖霊が注がれることはイメージが重なると思いつつ聖餐式聖書日課を確認していたら、聖霊降臨日のB年の旧約の日課はイザヤ書から選ばれていて、天から聖霊が注がれることが雨が降ることに喩えられていました。

「わたしは乾いている地に水を注ぎ、乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ、あなたの末にわたしの祝福を与える」

◆ さて、この聖霊降臨こそは、旧約の民が待ちこがれた<救いの日>の始まりを象徴的に示す出来事でした。

預言者エゼキエルは民に告げました。「『わたしは二度とわが顔を彼らに隠すことなく、わが霊をイスラエルの家に注ぐ』と主なる神は言われる」。

預言者ヨエルは民に告げました。「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは、奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ」。

預言者ゼカリヤは民に告げました。「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。その日、エルサレムにはメギド平野におけるハダド・リモンの嘆きのように大きな嘆きが起こる」。

数ある預言の中でも、ゼカリヤの預言で、<その日>=救いの日が、嘆きの日として語られていることに注意をひかれます。どういうことでしょうか。

預言者たちが告発した現実とは、人々が、神から離れた生き方、神に背く生き方をしながらも、まるで心が石であるかのようにそのことを何とも思わず、むしろ、そのような在り方に満足している有様でした。ですから、本日の日課でエゼキエルは、「(その日)わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える」という神の言葉を伝えたのですし、ゼカリヤは、「彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ」と語ったのでした。

来たるべき救いの日には、自分たちの生活、生き方を嘆いてもいなかった者たちが、初めて授かった子どもを亡くしたかのように悲しむだろう。これは神の民の間に悔い改めが起こされることへの待望を語る言葉です。堅く乾燥した大地に雨が降り、土が緩んで、青草が萌え出るが如く、人々が頑なだった心を砕かれ、神からの霊を注がれて、新しい命を芽生えさせることができるように、という祈りの言葉なのです。

◆ はたして、この預言は、イエス・キリストにおいて成就しました。

弟子たちは、十字架にかけられたイエスさまにおいて、自分たち自らが刺し貫いた者である神さまを見つめて、心に抱いていた疑い、恐れ、ひとりよがりな期待や望みに直面させられ、砕かれました。そこに、復活させられた主が現れ、息を吹きかけて下さったのでした。聖霊を注いで、死に支配されているこの世の現実の中で、その支配から解放されて生きていく力を与えて下さったのでした。

死の支配から解放されて生きていく力を与えられるとは、どういうことでしょうか。弟子たちに、何が起きたのでしょうか。

それまで弟子たちは、イエスさまの教えから学び、その業に希望を与えられていたものの、その霊的な意味を悟ることはできず、イエスさまの中に父なる神がおられ、父なる神の中にイエスさまがおられること、そして、自分たちがイエスさまの中に留まるならば、イエスさまは自分たちの中にいつまでも留まられるのだ、ということが分かっていませんでした。だからこそ、イエスさまが十字架につけられた後、闇と惑いの内に囚われ、ユダヤの指導者たちを恐れて家の中に鍵を掛けて閉じこもっていたのです。

しかし、今や聖霊を吹きかけられて、聖霊の光に照らされて、弟子たちは、イエスさまがかつてお教えになったこと、行われたこと、その地上の生涯の霊的な意味を理解したのです。そして、これから先も、天において父と子とひとつになる終わりの日まで、イエス・キリストという啓示の出来事は聖霊によって地上の共同体において繰り返し告示され続けるのだ、という、かつてイエスさまがあらかじめ教えて下さっていたことを理解したのです。

それによって、もはや死によって主と分断されないことを確信して、またイエスさまを礎石として始まった神の国の建設に信仰者一人ひとりが生ける石として用いられていくことを悟って、再び立ち上がることができたのでした。

◆ かつて韓国が民主化闘争の苦しみの中にあったとき、教会はその闘いの中心にあって、そこでイエスさまの栄光が現されました。その経験は「民衆神学」という形で証しとして残されています。民衆神学者の一人、安炳茂(アン・ビョンム)先生は、復活と聖霊降臨の出来事を「民衆の復活事件」と言い表されました。これはヨハネ福音書の神学をよく理解させてくれる表現であると思います。

最後に、安炳茂先生の伝える子どもを奪われた母親の祈りをご紹介します。この祈りには、苦難の中にあって聖霊を受けて、その光に照らされてイエスさまの受難と十字架、復活の意味を知らされ、再び立ちあがった姿を見ることができます。その当時、毎週木曜日と金曜日に牢屋にいる人々のための祈祷会が基督教会館で行われていて、そこで捧げられた祈りです。

「天のお父様、私たちの愛する息子たちが牢屋に入れられ、いつの間にか春が過ぎ、夏が過ぎ、肌寒い秋を迎え、秋夕を何日か前にした私たち、母たちは悲しみと涙でどうしようもありません。この重苦しい心境を押さえきれず、時には山々を駆け巡り、あなたに大声で泣き叫びました。どうかこれ以上遅滞なさらず、私たちを憐れんで、私たちの願いをお受け入れ下さい。天のお父様、私たちの息子たちを顧みてください。彼らは自分の安逸と幸福にかまわず、真に隣人を愛しました。彼らは延嬉洞(ヨンヒドン)の貧しい子どもたちに夜学校で奉仕し、疎外された靴磨きや新聞売りの子どもたちに、神の御言葉を証言し慰めてあげました。そして哀れな孤児たちの友達になることをためらわなかったのでした。…天のお父様、彼らを憐れんで下さい。彼らに誤りがあるなら、七回の七〇倍までも赦してくださる神様、彼らが悔い改めてあなたの赦しをいただくよう、そして、念願のその日が早く来るよう心からお願いいたします。黄寅成(ファン・インソン)のお母さんを憐れんでください。故郷では共産党の家柄だと誤解され、落胆し自殺まで図りました彼女を慰めてください。金景南(キム・キョンナム)のお母さんを憐れんでください。手間仕事をしながら息子の面倒をみておられる彼女に、助けの手を差し伸べてください。金ヨンジュンのお母さんは、息子にも会えないまま世を去りました。彼女の遺族を慰めてください。この他にも、多くのお母さんたちが苦しんでいます。彼女たちのためにお祈りします。私たちは数え切れないたくさんの夜を眠れずに明かしました。風が吹き、雨が降る夜は、息子を思い出し眠ろうにも眠れません。町に出て彼らの友達に会うと、息が詰まり何も言えません。毎日の食卓の食べ物を見て、息子を思い出さずにはいられません。…天のお父様、私たちは真に悔い改めます。この民族と国を憐れんでください。過去、私の息子だけにおいしいものを食べさせ、いい服を着させようと思ったことを、どうかお許しください。十字架の苦難の本当の意味を分からず、自分の息子の出世だけを願っていたことを赦してください。多くの貧しい隣人を見ながらも、彼らの友達になることを嫌っていた罪を赦してください。また、この国の不遇な寡婦や孤児たちの苦痛に目を背け、奢侈に走る母達の罪を赦してください。今になって、私たちは愛する息子たちを通して、あなたが私たちに何を望んでおられるかが分かりました。それは人の息子を自分の息子のように愛しなさい、ということです…」(※『民衆神学を語る』(安炳茂, 新教出版社, 1992)

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