わたしの父は農夫である :: 海辺のノート

わたしの父は農夫である

25. May, 2014 • 2 Comments

復活節第6主日(A年)ヨハネによる福音書15:1-8

taiyoujyu丹沢正作という人をご存知でしょうか。明治9年(1876年)に、山梨県西八代郡上野村、今の市川三郷町で生まれた人で、1926年に50歳で亡くなっています。

私は2年前に浅川巧について調べていて、たまたま知る機会を得ました。巧のお兄さんの伯教は、朝鮮にわたることについて徳冨蘆花に相談をもちかけていますが、伯教に徳冨蘆花を紹介したのが丹沢正作でした。丹沢正作は、東京専門学校(今の早稲田大学)で法律を学び、その時代に徳冨蘆花と親交を結びました。蘆花は山梨の正作の家に夫婦で2度も泊まりに来ています。丹沢正作は濾過の『みみずのたはごと』という作品に、赤沢という名前で登場もしています。伯教はどうやって丹沢正作を知ったのでしょうか。丹沢正作は、八ヶ岳南麓の、大泉、小泉、長坂の辺りに最初にキリスト教を伝道した一人でした。浅川伯教は、昨年長坂小学校に統合されて廃校になった秋田小学校で教師をしていたことがあって、ちょうどその頃に秋田小学校のすぐ近くにできた伝道所でキリスト教と出会っています。ですから、そこで甲府教会の伝道師として山梨県内ばかりか静岡にまで伝道して回っていた丹沢正作と出会い、人生の重大事を相談するような親しい関係になったと思われます。

なぜ丹沢正作の話を始めたかというと、私は、丹沢正作によって、本日の福音書の冒頭にある、「わたしの父は農夫である」という言葉に注意を向けられたからです。その前の「わたしはまことの葡萄の木」という言葉はよく記憶されていると思います。でも、それに続く「わたしの父は農夫である」という言葉は、案外、見過ごされているのではないでしょうか。わたしも、正作に出会うまでは、単なる比喩的な表現として読み流していました。そんな言葉があったっけ?と聖書を開いて確かめてしまったぐらいです。

大正9年(1920年)、正作は、上野村小作組合を設立しました。正作が起草したその組合の「創立の趣旨」は、次のように始まっています。「我が父は農夫なり。土に生まれ土の生むものを喰らって生き而して死す畢竟我々は土の化物である。土の化物に一番適当なる仕事は農である。…略。我らの先祖は天領の民にして自然の懐に働き万物を成生して神と共に働き神と共に楽しむの幸福を謳歌せしが、この天領の民たる人の子は今や資本家の民と化し弱肉相喰らうの悲惨なる運命に知らず知らずの中に拘束せられたるにあらずや。…」

小作組合の設立趣旨を、「我が父は農夫なり」というヨハネ福音書の言葉をもって書き始めて、地主との交渉のため、あるいは相互扶助のため、という実際的な機能よりも何よりも、創世記第2章で強調されているような、人間の最も本来的で尊い姿としての農民、土に仕えて生きる者の姿の回復を組合設立の目的としてうたいあげたのです。

この規約に限らず、正作は、このみ言葉をしばしば引用して語っていたようです。正作の家に寄宿して学んだ石原文雄という人が、『太陽樹』(1941, 文昭社)という題名で、丹沢正作の伝記小説を書いていますが、その中には、正作が、妻になる人に向かって、次のように語っている場面があります。(小説では名前が変えられているが、ここでは説明を略すために本名に戻している。)

…彼は散歩しながら、言った。「ヨハネ伝に、我が父は農夫なりという言葉があるんですよ。先輩、徳冨蘆花も農夫は神の直参だといって、その言葉を例に引いているんですよ。人間の一生は土から生まれ、土の生む物を喰らい、土の中へ入る。その土から生まれるものを作るのが百姓なのですから、これは一番光栄ある仕事だ、天職だと言うんですね。同感ですよ。然るに世の中の百姓という百姓が、自分が百姓であることを呪っている。嫌っているんです。百姓は馬鹿だと言っている。これはどこも一般らしいですね。この前イワンの馬鹿の話をしましたね。それは世の中が利口者で一杯だからですよ。汗することを軽蔑し、土まみれなことを嘲笑する。ところが彼らは一度でも、額に汗するもの、土まみれなものが、この地上から無くなったことを考えたことがあるでしょうか。利口者の実利主義が世をリードしていると自覚しているけれど、結局世を安泰に置くのは、その汗と土まみれの馬鹿の力なんですからね。ところが、その馬鹿の中にも利口者が増えてきましたよ。正状ではないと思いますね。直接的に物質的不足もあるけれど、然し、不足とか満足とかは、無制限の問題で、事実生活に必要な物質というものは、自ずと限界があるんですよ。それは精神で見ることですよ。人はパンのみにて生くるものにあらず。そこですよ。そこですよ。…

これは、丹沢正作が、彼が実際に作った平民学校という農民のための夜間学校の理念について、「僕の学校は、馬鹿を作る学校です」と言って熱弁をふるっている場面の台詞です。この小説を書いた石原文雄は、その平民学校で学んだ人でしたから、このような台詞を実際に丹沢正作からよく聞かされていたのだろうと思います。

彼は、このように語るだけでなく、実際に生涯を、ただの百姓として生きた人でした。貴族の生まれのトルストイや、横井小楠門下の儒学者で官僚であった父の子として生まれた徳冨蘆花と違って、地主の家の生まれとはいえ、子どものときから野良仕事をして育った正作ですが、しかしはじめから、百姓以外の何者でもない者として生きるという達観を持っていたわけではありませんでした。

文明開化が叫ばれ、国を挙げて上昇志向が強かった時代に、地主の家に生まれ、時代の先端に触れる場所であった教会に行き、東京の大学で法律を学んだ丹沢正作に、単なる百姓でなく、何者かとして世に名をなしたい、人に認められたいという欲が全くなかったはずがありません。石原文雄は伝記小説『太陽樹』で丹沢正作が人生の夢、抱負、望みをことごとく打ち砕かれていく様のみを描いています。

『太陽樹』の「再出発」と題された最終章は、次のように結ばれています。

…彼は自分自身に反省のメスを入れた。まず第一に感じたことは、工女たちが見ていたアイヌ髭が無用の長物に見えてきたことだった。なぜ、こんな髭を作っていなければならないのか。そう突き詰めたときに、単に趣味とのみは考えていられなかった。ひとつの「見せびらかし」であることを否定する勇気は無かった。ありありと自分の仮面をそれに感じていた。嘘がありすぎる。掘り下げても掘り下げても、嘘はあるものだと思った。

…「さて、俺はどこへ行くべきか」そう考えたとき、山の家が主人を待っているのに気がついた。俺の行くべきところはそこなんだと、神の啓示のように鮮やかに思い浮かべていた。彼が日頃感じていた事は、自分は百姓以外の何者でもないという絶望感であった。だが、その絶望を持って覆われた百姓が、実は真実の自分らしい生活であったのだ。自分らしい生活をおいて、どこに真実な生活がありえよう。平民学校へではなくて、山の家へ帰っていくのである。

…今、彼が分かり始めたことは、世の中には自分以外に素質に恵まれた牧師や伝道師のあることであった。考えてみると、彼の前生涯に一度も、みっちりと百姓らしい気持ちで鍬を取り鎌を握ったことはなかった。学生生活以来殊に助長されていた。いつも百姓の中では異端者だった…百姓が自分らしい唯一のものなら、百姓で結構ではないか。それ以上の何を求める必要があろう。それ以上のものがあれば、それは自然に流露すべきであろう。

…彼は山の家が見える雑木林の中で、素っ裸の人間として再出発する自分の前途の正しく、雄々しくあるために先ず神に祈るのであった。

わたしは、この結びを読んで、マルコ福音書の復活記事を思い起こしました。空の墓の中で天使は婦人たちに言いました。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われていたとおり、そこでお目にかかれる』と。」偉大なるイスラエルの教師、メシアの高弟としてやってきたエルサレムにおいてではなく、自分たちが名のない漁師や取税人の一人に過ぎなかった地であるガリラヤに戻って、あなたたちは再出発するのだ、と天使は告げたのでした。

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」という言葉に続けて、イエスさまは次のように語られました。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」

葡萄は果樹の中でも特に強い剪定が必要で、その年に伸びる枝の長さの70~80%も切除するそうですね。それによって樹の健康が保たれ、寿命が長くなり、よい果実を得ることができるのだそうです。花が咲き終わってしばらくすると、粒付きの悪い房は摘み取り、さらに残された房にもはさみを入れて悪い粒、多すぎる粒を除いて、残された粒に養分がしっかり行くようにする。そうして初めて、実が成熟することができる。しかし、枝の剪定や房や粒の摘み取りは、素人には判断が難しく、もったいないようにも思えて、なかなか思い切りよくできないものです。

イエスさまは、わたしたちを、このような葡萄の枝にたとえられたのでした。信者は、まことの葡萄の木であるイエス・キリストに繋がれた枝であり、結ばれて新たな命を与えられ、支えられ、守られているが、それぞれ自分の抱く思い、考え、欲求から様々な方向に枝を伸ばそうとする。しかし、伸ばし放題に伸ばすならば、互いを遮り合い、陽の光を十分受けられなくなり、風通しが悪くなって病害虫が発生しやすくなってしまう。かといって、自分で、自分をあるべき姿に整えること、よけいな枝を切り詰めることはできることではない。農夫たる父なる神は、そんな私たちに人生の試練を与え、枝を切り詰めて、義の実を豊かに結ぶことができるようにしてくださる。そう、イエスさまは言われたのです。

丹沢正作も、まさにそのように数多の試練に遭い、枝を切り詰められて、百姓以外の何者でもない自分、真実の自分に帰ったことで、豊かに実を結んで、「山の先生」と呼ばれ親しまれ、「神の子のようだ」と尊敬される人となったのでした。

「み言葉を成し遂げる嵐よ、主をたたえよ!」(詩148:8) わたしたちも、まことの葡萄の木に繋がれていることに信頼し、豊かに実を結ばせてくださる農夫たる父なる神に信頼して、人生の試練を受けとめながら歩んでまいりましょう。

(甲府聖オーガスチン教会にて)

2 Comments to “わたしの父は農夫である”

  1. 尾関敏明 says:

    昨日は、紋別聖マリヤ教会にて行われた、オホーツク3教会(網走、紋別、北見)の合同礼拝に参加しました。参加者の中に「農夫也(のぶや)」というお名前の方がおられて、ご自分の名前の由来を紹介されました。先生のお説教を読み、改めてこの聖書箇所の深みを感じた次第です。ありがとうございました。

  2. くまのみ says:

    お読みくださり、ありがとうございます。「也」は、ヤハウェの「ヤ」でしょうか。「ヤハウェは農夫なり」というお名前ですね!

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