その石を取り除け :: 海辺のノート

その石を取り除け

6. April, 2014 • 0 Comments

大斎節第五主日(A年)説教(ヨハネ11:17-44)

Lazarus,_Russian_iconsこの大斎節、キリストによって開かれた永遠のいのちへと至る道をテーマとして、ヨハネ福音書の選ばれた箇所を読んでまいりました。

前半は、まずこの歩みの中で受ける試みの本質について、次にこの道を歩み出すこと、すなわち水による洗礼について、そして、この道を歩み続ける力の源を与えられること、すなわち霊による洗礼について、というように、死からの解放の業を神から<受けること>に重点が置かれていました。

後半に入った先週からは、死からの神の解放の業そのものに重点が移っています。先週は、生まれつきの盲人の癒しのお話でした。神の愛を受け、水と霊から生まれ直したものは、イエスさまをキリストとして見ることができるようになるのだ、聖書の言葉が自分の人生に意味を持つものとして響いてくるようになるのだ、ということが語られていました。

本日の福音書は、イエスさまが死んだラザロを蘇らせる話です。生まれつきの盲人の癒しの話と事柄としては同じことが、さらに覆いが取りはらわれて語られています。イエスさまをキリストとして見ることができるようになる、ということは、イエスさまにおいて私たちは神を見るのですから、神のご臨在のもとに生きるようになるということであって、それは永遠のいのちにあずかるようになることに他ならないからです。

サマリヤの女の話でも、生まれつきの盲人の癒しの話でも、神のみ言葉は、信じるようになった者において実を結び、その人の証しを通してこの世に神の栄光を現すことが語られていました。

「証し」の本質は、死から命への過ぎ越しの神秘にあります。日曜日に教会に行くという形の「証し」であれ、家族や友人、知人に自分はキリスト者であると公言するという形の「証し」であれ、命の源、生活の基盤としてこの世が崇めよと強制してくるものに逆らって真の神を告白するという形の「証し」であれ、すべての「証し」はその人の生において死の力に対する命の勝利を宣言するものです。そこには常に、この世の力とのたたかいがあります。

信じたら病気が治りました!、ビジネスに成功しました!、こんなに幸せになりました!などと、この世的な幸福が信仰と結びつけて証しとして語られているのを見聞することがありますが、そんなものは「証し」ではありません。

先日、韓国のチョー・ヨンギ牧師が、内部告発に始まる裁判の結果、懲役3年、執行猶予5年、罰金4億7800万円の判決を受けました。罰金の額の大きさに驚かされますが、チョー・ヨンギ牧師が1958年に設立したヨイド純福音教会は80万人もの信徒のいる世界最大の教会なのです。彼の語る福音は「繁栄の福音」と呼ばれ、生活がこの世的に祝福されること、教会が量的に成長することに、神の祝福の確証を見るところに特徴があります。日本でも、福音派やペンテコステ派だけでなく、一部の伝統的なプロテスタント教会にまで影響を与えています。

私には、彼が語っていることはキリスト教の福音ではなくて、自己啓発セミナーで語られる米国流の成功哲学ではないか、それが心理学等の技術と組み合わされているだけのことではないか、と見えてしまうのですが、「繁栄の神学」を擁護する人たちは言います。クリスチャンになると、この世では苦しむけれど、あの世では幸せになりますよ、というのは、おかしい。新生した者は聖霊で満たされ、信仰によって病いを癒され、正しい生活を祝福されて、霊的にも物質的にも恵まれる、それが現実になるのが本当のキリスト教ではないか、と。

そのような考え方には理解の混乱があります。この世界は神様が創造され、その目にかない、すべての生きるものの命が充溢するようにと祝福されたものである、それはその通りですが、そのように祝福された創造の秩序が人間によって崩されていて、この世がサタンの死の力のもとにあるという現実が甘く見られています。その結果、神から与えられている祝福と、サタンに従うことで得られる「幸福」、そしてキリストの道を歩むものに力を与える聖霊の恵みの、全く異なる3つのものが、区別できなくなっているのです。

パウロは言いました。

「わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、 悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」(Ⅱコリ)

これが、昔も今も、この世に生きるキリスト者が取るはずの姿です。

本日の福音書では、イエスさまとマルタの対話の中で、このことが問題にされています。

イエスさまが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは悲しみに囚われたまま、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えました。

マルタは、永遠のいのちにあずかる、ということを、死後のこと、将来、世の終わりにおいて実現すること、と考えています。しかし、イエスさまは、そうではない、と言われます。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」

わたしをキリストとして見るようになった者はすでに永遠のいのちにあずかっているのだ、とイエスさまは言われるのです。

終末とはこの世の時間の延長上の終点にあるのではなく、世に来られた光であるイエス・キリストとの現在の関係の内にあるものです。救いも、裁きも、死後の遠い未来にあるのではない。今、イエス・キリストの方に行くのか、行かないのか、という現在の選択にあるのです。救いにあずかる者には自らの選択が既に救いになっており、滅びる者には自らの選択が既に裁きになっています。

このことを教えられて、マルタは、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と答えたものの、復活という神秘の現実性を信じ切れてはいませんでした。

そんなマルタを見て、墓の前でイエスさまは命じられました。「その石を取り除けなさい。」マルタは言いました。「主よ、四日も経っていますから、もうにおいます。」

この石とは何だったでしょうか。マルタの心を塞いでいた諦めの心でしょうか、朽ちるほかない肉においてしか、この世の感覚的なものに頼ってしか、命を考えることができない人間的な考えでしょうか。わたしたちの歩みにおいて、限りない命を与える神への信頼を最後のところで弱めているものは何でしょうか。すでに天に召されたわたしたちの兄弟姉妹が永遠のいのちにあずかっていることを信じ切れていないとしたら、それは何故でしょうか。

この世における歩みは、ただ耐え忍ぶだけの苦しいものではありません。生きた水を与えられて尽きることのない泉を自分の内に持つようになったものは、すでに永遠のいのちにあずかって、この世の苦しみ、悲しみによって打ち消されることのない喜びに生きるものとなっているのです。その確信が持つ力を押さえつけてしまっている石を取り除き、共に感謝と賛美の礼拝を捧げつつ、はるかにみ国を望みながら歩んでまいりましょう。

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