葬送式とは

29. 3月, 2014 • 2 Comments

※ 2014年度 長坂聖マリヤ教会 大斎節講話資料

◆ 葬送式は公祷です

米国の教会が最も異教的になるのは葬りにおいてであるという警告を発した米国の神学者がいたそうです。米国での話ですから、土着の宗教、習俗の影響を受けがちだ、ということではなくて、逝去者本人あるいは遺族の願いに応じようとして、葬送式がキリスト教の礼拝として逸脱しがちになっているという指摘だったのだろうと思います。

日本でも、米国と同様、結婚式であれ葬儀であれ、伝統に囚われずに自分の考えによって行いたいという要求が強くなっています。他方では、地域社会の伝統によって行うべきであるという要求も依然として強く、両者からの要求に妥協しがちな現状があるのではないかと思います。

このような状況下、葬送式を正しく執り行うことは、他の礼拝の場合よりも困難なことです。

そこで、まず押さえるべき要点は、葬送式は公祷である、ということです。公祷とは、キリストのみ名により、神の民として共同で捧げる礼拝で、定められた祈祷書によって行うものです。

教会の葬儀は、遺族が主催する私的な別れの儀式ではありません。地域共同体が行う社会的儀礼でもありません。教会での葬儀は、教会を会場として行われる社会的儀礼ではなく、教会が遺族に委ねられて捧げる公的な礼拝です。

教会で葬儀を行う場合は、自分の葬式なのだから自分の思うようにしてもらいたい、家族の葬式なのだから遺族の思うようにさせてほしい、というわけにはいきません。地域の事情、逝去者の遺志、遺族の意向、事情等を汲むことは何も否定的に考える必要はなくて、むしろ、積極的にそうした諸事情を反映することは望ましいことですが、しかしその大前提として、葬送式自体への理解が必要になります。

◆ 葬送式によって、わたしたちは何をするのか

祈祷書346頁「葬送の式」の冒頭のルブリック(細字規定)に、 葬送式によって私たちは何をするのかが示されています。

「わたしたちはこの式によって、世を去った信徒を主のみ手にゆだね、終わりの日の復活の喜びを待ち望みつつ、愛と感謝の交わりを共にするのである。」

これを押さえることが、まず大切です。

葬送式とは、
(1) <わたしたち=教会>が主体となって、逝去者を主のみ手に委ねること、
(2) なお世にあるわたしたちと、いま天に召された逝去者、および代々の聖徒が、終わりの日の復活の喜びを待ち望みつつ、愛と感謝の交わりを共にすること、
である、ということです。

逝去者との私的な関係での親密さ如何によって、式に出る、出ないというものではないことが、お分かりいただけるかと思います。葬送式は遺族や親しかった人たちで行う私的なお別れの会ではありません。葬送式とは、教会のわざ、わたしたち自身の信仰の行為なのです。

また、そのような式ですから、これは未受洗者や他の宗教、主義を奉じる人のために用いることはできませんが、自らは信仰を持っていないけれども、教会に自分あるいは家族を委ねたいと願う方たちを、わたしたちは自らの信仰において主のみ前にお連れし、主に委ねることはできます。そのための式文は別に用意されています。

葬送式におけるわたしたちの祈りは、葬祷(祈祷書347頁)に言い表されています。

「天の父よ、あなたはみ子イエス・キリストによってまことの信仰と希望を与えてくださいました。どうかこの信仰と希望を強め、世を去った者も世にあるわたしたちも、聖徒の交わりのうちにあって、罪の赦しと主のよみがえりにあずかり、永遠の命に生きることができますように、主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン」

2 Comments to “葬送式とは”

  1. 尾関敏明 より:

    大変良い学びとなりました。ありがとうございました。教会の葬送式と言えども予定外の事であるため密葬の様な形で執り行われる事も多くなってきたように思います。公祷であるという認識を改めて持ちたいと思いました。

  2. Michinori Mano より:

    ありがとうございます。実際的な様々な配慮との兼ね合いで難しいところですね。

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