霊の渇き :: 海辺のノート

霊の渇き

20. March, 2014 • 0 Comments

大斎節第三主日(A年)説教
出17:1-7, ロマ5:1-11, ヨハ4:5-26,39-42

samaritanwsエジプトから導き出されたイスラエルの民は、その全員が行く手を阻む海を前にして信仰的決断をもって奮い立ち、海に足を踏み入れたわけではなかったでしょう。小太鼓を手にとって踊りながら先頭を行った女預言者ミリアムのような者は少数で、大多数は追ってくるエジプトの戦車隊への恐れに駆られて海に入ったのでしょうし、あるいは家族に従って入ったのでしょう。決断をもって海を渡った者たちでさえ、自由な人間として生きる望みを保ち、荒れ野の生活にくじけなかった者はほとんどいませんでした。まして、死への恐れに駆られて海を渡った者、家族に従って海を渡った者は、身に迫った危険が遠のくや否や、荒れ野を歩み続ける気力を容易に失ってしまったに違いありません。

荒れ野で<飲み水>を見つけられずにモーセに対して民が不満を言い募ったエピソードは、民が歩み続ける気力をなくしてしまったことを象徴しているように思います。人間は、食糧があって体を維持できても、それだけでは満たされません。人生が肯定されている、人生に意味がある、と感じられて初めて、生きる気力、瑞々しい生気を保てるのではないでしょうか。それがある人はそのことを意識しないかもしれません。しかし、それがない人は、なぜ生き続けなければならないのかも分からないと感じ、主は本当に我々の間におられるのかと、主を試す誘惑に直面します。<飲み水>は、生きる気力、生気を蘇らせるもの、人生を肯定的に見ることを可能にするもの、即ち神からの霊を象徴していると考えられます。

これが先週の福音書の「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」というみ言葉が示していることでしょう。水による洗礼を受けてこの道に足を踏み出しても、霊による洗礼をうけてこの道を歩む力を与えられなければ、神の国に入る前に躓いてしまいます。水による洗礼と霊による洗礼は、同時に経験する人もいるでしょうし、間に時をおいて経験する人もいるでしょう。

イエスさまの弟子たちがそうでした。彼らはイエスさまが処刑されたことに躓き、生気を失って萎れきり、心の戸を閉ざしました。しかし、復活されたイエスさまと接したことで心に再び霊の火が点され、生気を取り戻し、何もおそれずに歩む者となったのでした。

人生に意味を与えてくれていたものが存在しなくなる、否定される、奪われる、という経験、それが霊による洗礼において水に沈められることに相当する経験でしょう。

イスラエルの民は、エジプトを出ることで、それまでそれなりに生きる意味を与えてくれていた諸々のものを手放しました。だから、天からマナを与えられて体は満たされても心の渇きを抑えられず、飲み水を求めたのでした。乳と蜜の流れる地で自由な人間として暮らす、という約束だけでは、心の張りを保てませんでした。それはもっともなことではないでしょうか。わたしたちだって、天国に入れていただける、という約束だけでは、とても信仰生活を歩み通すことはできないでしょう。

モーセが岩を杖で打つと、その岩が水を出し、民の心の渇きを潤しました。民の不信仰のために杖で打たれたこの岩は、イエス・キリストを表しています。この岩から出た水を飲んで、民の子孫は約束の地に入ることができました。

サマリアの町シカルの女に、イエスさまは言われました。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

この世界で私たちが頼っている井戸、それは家族だったり、仕事や趣味であったりしますが、そこから飲む者はだれでもまた渇きます。枯れてしまったり、使えなくなったりすることが避けられないからです。

しかし、イエスさまから与えられる水を飲むならば、それは自分の内で汲めども尽きせぬ泉となります。イエスさまから与えられる水、それは十字架の死と復活において開示された永遠なる神の愛に他なりません。それを聖霊によって心に注がれるならば、枯れることのない泉を心に持つようになります。捨てるべき過去から離れ、霊において新たに生まれ、実を豊かに結ぶようになります。

ニコデモはそこで躓き、サマリアの女はそこで救われました。ふたりは同じように、霊を新たにされることについてのイエスさまの教えを聞きました。ニコデモは霊的な渇きをもってイエスさまを訪ねながらも、自分の立場や考えに囚われて、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言って、差し出された贈り物、命のみ言葉を、受け入れませんでした。サマリアの女は、自分たちを差別するユダヤ人の見知らぬ男性が飲み水を求めてきたことに戸惑いながらも、「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください」と願い、その願ったことにおいて、生ける水であるイエスさまを、イエスさまが与える永遠の命に至る水を、自らの内に受け入れたのでした。

どうか神が、荒廃と破壊、絶望の砂漠を、愛と生ける水の流れに変えてくださりますように。聖霊が、霊が渇いている者の心の扉を開き、十字架の死と復活に示された主の愛を豊かに注ぎ、立ち上がらせてくださいますように。アーメン

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